救い主のご誕生 おめでとうございます

 

 この出来事を思いめぐらす時、神のみ前にただただ、頭がさがるおもいがいたします。

クリスマスのご挨拶を皆様に送ります時、数ヶ月前からの高槻小教区共同体の歩みを少し振り返りたいと思います。茨木 高槻両共同体は8月29日と9月5日にそれぞれ多くの方々の参加をもって<教会の本質>について研修会をいたしました。

学びと分かち合いにおいて、足りないところは幾つかありましたが、良かったと言う評価もいただきました。最終のアンケートから私たち司牧チームが感じ取ったことは、皆様が教会の教義を学び、みことばを分かち合い、気付きあって、キリストの望まれる教会に成長してゆきたいという思いでした。

皆様からのこの思いを大切に歩んで行きたいと思っています。ありがとうございました。

今日はこの紙面をもって少しみことばをあじわい、分かち合いたいと思います。

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。    

私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。(マタイ2章)

その方の星 イエスに導く星は 今夜も夜空に輝いていることでしょう。しかし私たちが夜空を見上げ、夜空の星に感動する心を大切に生活しているでしょうか。

園児と関わる日々の生活の中で時々、幼子の今を大切に生きている姿に美しさと、感動を覚えます。神は私たちの日々の現実の中で招き、呼びかけ、導いておられると思いますが、私たち大人はいろいろな事に捕らわれ、今この時を生きられず、夜空を見上げる事も、素直に生きることも難しく、イエスの星に気付くことのない日々を生きてしまっているような気がいたします。

今を生き 起こってくる出来事を素直に受け止め 素朴な心で感動し ありのままを喜び 自然を愛する心をもって全てを味わい いつもイエスの星を見つけて生きて行きたいと願っています。

 

2010年のすべてを感謝し、新しい年の祝福を幼子イエスに願い皆様のために祈ります。                

                       シスター橋本 とも子






































共同宣教司牧チーム

アデリノ・アシェンソ神父

「神秘性が薄くなっている」という言葉はたまに耳に入ってきます。「神秘性」とは何でしょうか。「神秘」とは「普通の理論・認識を超越した事柄」(広辞苑)と。教会に入ると、嬉しくなり、自分自身が満たされるのでしょうか。そこに生活との繋がりがあり、毎日の挑戦のために力を貰うという場所とならなければなりません。教会が神との交わりの秘跡であるのですが、「秘跡」というのは、神の現存、神との交わりを感じさせられることです。これによって、教会の神秘性が現されるのです。その神秘性を味わうことができるように、キリストを囲む共同体のすべての信徒の協力が不可欠です。外面的な姿勢だけではなく、内的な結びつき、心の交わり、自分の運命を分かち合うというキリストを中心にする信徒共同体。表面的に洗練された形をしていても、心と心との間の結びつき、繋がりがなければ、本当の信徒共同体とは言えません。そして、イエス・キリストとの交わりがなければ神秘性は消えてしまいます。
 典礼は「神との出会い」であるので、神秘性を深く感じるのは典礼の中心となったイエス・キリストの愛の奉仕の記念、すなわち「ミサ」を捧げる時です。第二バチカン公会議の「典礼憲章」に記されているように「典礼は、まさしくイエス・キリストの祭司職の行使と考えられるもので、典礼において、人間の聖化が感覚的なしるしによって示され、それぞれのしるしに固有な仕方で実現される」と。
 ミサの典礼は喜ばしいことであるべきですが、その素晴らしさを理解しなければなりません。ミサの流れとしては、「開祭の儀」と「ことばの典礼」は前半で、その日に告げられる神のことばをいただいて互いに深め合う部分です。「感謝の典礼」で始まる後半は「最後の晩餐」を再現してキリストの奉献に合わせて、全会衆がともにささげるという。このなかで聖別されたキリストの体(聖体)を互いに分かち合います。「ことばの典礼」と「感謝の典礼」は、互いに固く結ばれて一つの礼拝祭儀を成しています
 「ことばの典礼」の重要性を忘れがちではないかと思われます。たとえば、「どんな部分からミサに与かれば聖体拝領ができるか。聖変化とか聖体拝領に間に合ったら大丈夫ではないか。朗読を聴かなくてもかまわないのではないか」という。もちろん、それは大きな間違いです。「ことばの典礼」と「感謝の典礼」は、「互いに固く結ばれて一つの礼拝祭儀を成している」ので、両方ともミサの非常に大切な部分であります。
 「ミサ」そのものは、「開祭」から「閉祭」までです。「開祭」の時の「回心」の祈りを考えましょう。「司祭のあいさつ」の後に「回心」の祈りが行われます。「司祭は会衆を回心に招く。会衆はしばらく沈黙のうちに反省し、続いて〔〕告白する」と。もちろん、このことばは赦しの秘跡の効果をもつものではないのですが、共同性の重要性を強調します。 
 もっと積極的に・効果的にミサに与るように努力し、私たちが囲んでいるイエス・キリストの現存を意識し、神秘性を味わいましょう。
 ご降誕なさった幼子は一人ひとりの心を照らして下さいますように。

    
      「神さまが望んでおられる・・」

 12月は師走。辞書で調べると、師走坊主、師走浪人などなど、ぱっとしない意味ばかり。「落ちぶれて・・・」と書いてあります。(興味のある方は広辞苑を見てください)ともあれ、師走は何となく気ぜわしいのですが、神の一人子イエスの誕生に至るまで、主の天使も忙しかったでしょう。
  大天使ガブリエルはザカリアを訪問し、マリア様のところにも現れました。ヨゼフ様の夢の中にはどの天使だったのでしょうか?と思いめぐらします。幼子イエスが誕生する時には羊飼いたちに、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日(きょう)ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ 主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子(ちのみご)を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2.10〜12)と告げました。そして「この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。」(ルカ2.13,14参照)天使の言葉を信じた羊飼いたちが目にしたのは、何とも心暖まる光景、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子とその傍らにいるヨゼフとマリアでした。
  ところで、このところずっと考えていることがあります。それは人間の勘、第六感はなかなか鋭く、役に立ちますが、それに頼らず、「これそこ神様の呼びかけだ・・たぶん・・・」と思う時には、私自身が考えを巡らすのをストップし、黙って、「はい、主よ。」と答えたいものだと。幼子イエスがもし、神の御子として宮殿の中で産声を上げていたら、恐れ多くて、近づけなかったかもしれません。でも実際は、泊るところもない人たちと同じ体験をして、素朴な人々に囲まれ、ご自分を全く明け渡したかたちで生まれてくださったのです。イザヤ書7章14節では、「おとめが身ごもって男の子を生む、(彼女はその子を)インマヌエルと呼ぶ。」とあります。マタイはこの箇所を引用しながらも、「彼女」ではなく、(彼らはその子を)インマヌエルと呼ぶ。」に変えています。その彼らの中に私も加えていただけますように。神の人間を愛する思いが具体的な形=インマヌエルとなって現れたこの事実を前にして、私の貧しいけれども、感謝いっぱいの、喜びいっぱいの心をささげることができますように。そしてその思いが隣人への具体的な行動へと結びついていきますように。そんなことを願えるのは、神様がくださったクリスマスの最高のプレゼントかもしれません。
          司牧チーム Sr.狩野敦子(礼拝会) 

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 からしだね

2010年 クリスマス  第63号  カトリック茨木教会発行誌

                三輪周平

「ヨセフがクリスマスの絵画の中に登場するのは6世紀になってからです。ヨセフはときどき、旧約聖書やユダヤ教の象徴として、丸い形をしたユダヤ教の帽子をかぶっています。イコンでは、考え込んでいるヨセフに、預言者イザヤが処女降誕に隠された真理を説明しています。中世後期には、ヨセフはだんだんとクリスマスの登場人物として前面に出てきます。(『クリスマスの黙想』アンゼルム・グリューン著キリスト教新聞社)
個人的な思いですが、クリスマスにまつわる中世時代の絵画を見ますと、マリアと幼子イエスに対してヨセフが懐疑の目で見つめているものや二人についてわたしには無関係ですと言いたそうに母子に対して目を背けている老人のヨセフです。ちょっとがっかりしてしまいます。
しかし、2年前に「降誕物語」(日本では「マリア」)という題名の映画を見ましたが、その時のヨセフは若くて勇敢な男でした。ヘロデから或いはエジプト逃避行でマリアと幼子イエスを守るためには弱々しい老人ではとても無理だと映画を見て思いました。すぐさまヘロデ王に殺されてしまいます。二千年前のヨセフの姿が若い男性だろうが老人だろうがどうでもよいことかも知れません。聖書はヨセフについて大切なことを教えています。ヨセフは、婚約中のマリアが身ごもったことを知って、マリアを傷つけないように別れようと決心します。けれども、天使が夢に現れて励まし、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと、その子は民を罪から救うことを告げると、自分の考えに固執せず、すべてを素直に受け入れました。驚くほど神と人への信頼に満たされているヨセフの態度です。聖書にはヨセフは「正しい人であった」(マタイ1:19)と記されています。それは単なる律法を尊重したのではなく、人間を尊重したのです。彼の正しさは、人を慰め、勇気づけ、正しく生きる余地を与えました。聖書にはしるされておりませんが、マリア様が身ごもったことを知った時自分はとても神の子の父親又神に選ばれた人の夫になるのは相応しくないと思って身を引かれたのかもしれません。

 聖ヨセフがいつ亡くなったかはっきりわかりませんが、キリストの公生活の間、イエスが「マリアの子」(マルコ6:3)と呼ばれていたことは、ヨセフが亡くなって、かなりの年月がたっていたことを示しているように思われます。ヨセフは亡くなった時、おそらく、イエスと聖マリアに囲まれて亡くなったと思われることから、「良き臨終の保護者」としても崇められるようになっています。 ところで神様は、ヨセフが神の御子への奉仕に、自分を捧げつくして引き受けた使命を、キリストの体である教会の中で続けていくように望まれました。マリアが教会の母であるのと同様に、イエスの守護者ヨセフは教会の保護者でもあります。聖ヨセフは茨木教会の保護の聖人です。茨木教会は聖ヨセフにささげられた教会です。聖堂では聖ヨセフの像は右側の上部に謙遜に私たちを見守ってくださっています。聖ヨセフの取次ぎを求めながら私たちがいつもみことばの光によって歩み、救いの喜びを多くの人と分かち合っていくことができますように祈りたいと思います。

それは愛です

イエスさま、 なぜ泊まる所がないの?

それは あなたの心に宿るため

イエスさま、 なぜ馬小屋に生まれたの?

それは 貧しい人を満たすため

イエスさま、 なぜ飼葉おけの中に眠っていらっしゃるの?

それは あなたの命のパンとなるため

イエスさま、 なぜ赤ちゃんになられたの?

それは あなたの弱さがわかるため

イエスさま、 なぜ一枚の衣しかないの?

それは あなたに救いの衣を着せるため

イエスさま、 なぜ冠がないの?

それは 茨の冠をかむるため

イエスさま、 なぜこの世にお生まれ下さったの?

それは あなたを愛するため