あなたの愛に関する強いところは。

 

あなたの愛に関する弱いところは。

あなた自身が愛にとどまっているでしょうか。愛に生きているでしょうか。下の空欄に自分の前を書いてください。どこまで愛にとどまっているか、身近な人々の一人一人との関係を自己点検しましょう。

 1._____は忍耐強い。         1.2.3.4.5.

2._____は情け深い。         1.2.3.4.5.

3._____はねたまない。        1.2.3.4.5.

4._____は自慢せず、         1.2.3.4.5.

5._____は高ぶらない。        1.2.3.4.5.

6._____は礼を失せず、      
 1.2.3.4.5.

7._____は自分の利益を求めず、1.2.3.4.5.

8._____はいらだたず、        1.2.3.4.5.

9._____は恨みを抱かない。    1.2.3.4.5.

10.____  は不義を喜ばず、    
 1.2.3.4.5.

11.____  は真実を喜ぶ。       1.2.3.4.5.

12.____  はすべてを忍び、      1.2.3.4.5.

13.____  はすべてを信じ、       1.2.3.4.5.

14.____  はすべてを望み、       1.2.3.4.5.

15.____  はすべてに耐える、     1.2.3.4.5. 

16.____  は決して滅びない。   
 1.2.3.4.5. 

 

 神の属性

1.神は忍耐強い。

2.神は情け深い。

3.神はねたまない。

4.神は自慢せず、

5.神は高ぶらない。

6.神は礼を失せず、

7.神は自分の利益を求めず、

8.神はいらだたず、

9.神は恨みを抱かない。

10.神は不義を喜ばず、

11.神は真実を喜ぶ。

12.神はすべてを忍び、

13.神はすべてを信じ、

14.神はすべてを望み、

15.神はすべてに耐える。

16.神は決して滅びない


  

私の心に残っている「存在の根を探して」

ーキリスト教の基本を探るー

                中川 博道(カルメル会司祭)

 

司牧チーム橋本とも子

 月刊誌「福音宣教」の中に昨年より連載され掲載されていますテーマです。

創世記から新約聖書まで広く、深く、みことばに触れつつ人間存在の考察に迫り、神と出会い、神の愛を知り、交わり、従って行くキリスト者の歩み方が丁寧に現されています。

下記の引用箇所は、キリストと出会い従って歩む人物と、従えない人物の姿が現されています。私たちの生活がキリストに従う者であるための、ヒントになる箇所だと思います。    

イエスは自分に近づいてきた二人に「何を求めているのか」と声をかけました。これはヨハネ福音書中のイエスの最初の言葉です。この強調された言葉は、イエスについて行こうとする私たちすべてに等しくかけられている言葉のように思います。カトリック教会の「入門式」において、最初にかける言葉も「あなたは何を望みますか」です。ここに、イエスの「何をもとめているか」の問いかけと同じ響きを感じます。

この問いかけには、自分自身が何を求めてイエスに従おうとしているのかを自問してみる促しがあります。金持ちの青年は「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねます。

金持ちの青年はたくさんの財産(握りしめている自分の世界)を持ち、その世界を完成させ、完全にするためにイエスに自分の世界に欠除している知識を願いました。彼が求めたのは、自分の世界を完成させるための知識であってイエスそのものではありませんでした。それに対してイエスは、自分の世界(財産)を売り払って、ご自分との出会いに来るように「私に従いなさい」と促します。

この青年の悲しみは、自分の世界を出て行くことができなかったことでした。

 これに比べ、ヨハネ福音書のあの二人の弟子たちは「どこに泊まっておられるのですか」「どこに行ったらあなたに会えるのですか」と、イエスのおられるところを尋ね、イエスと出会うために自分たちの世界を出ようとしています。

 この「どこに行けばイエスに会えるのか」という問いは、ヨハネ福音書が持つ一つの重要なテーマであると言われます。出会いの原理は、自分を出て相手を探すことから始まります。たとえ面前にいる相手であったとしても、真実の相手を探す努力なしに、出会いを深めていくことはできません。相手を探し続ける姿勢を失う時、相手を見失います。生涯、真実の相手を探し求める歩みの中にのみ、真実の出会いは成立します。ある意味で真実の相手はいつも隠れている存在なのです。「隠れておられるお方」を探すこと、それは出会いの原理であり、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ66)というイエスの勧めにあるように、神との出会いを生きる根本的なあり方です。

生涯神に従い続けることが出来るためには、常に神の呼びかけに耳を傾け、自分の世界に囚われずに出て行く覚悟をもちたいものです。


  

 



千里ニュータウン・茨木・高槻教会共同宣教司牧チーム

アデリノ・アシェンソ神父

トマシュ・ハリク(Tomáš Halíkという著者を紹介いたしましょう。チェコ共和国生まれのトマシュ・ハリクイエズス会の司祭です。ハリク神父の出版物は多く、その中で最も印象的なのは Patience with God: The Story of Zacchaeus Continuing in Us 『神との忍耐私たちのうちのザアカイ物語の継続』という本題です。この本の対象は、主に無神論者、無関心者、不可知論者、キリスト教の「外側」に立つ人、また「神の沈黙」のため悩む人です。「忍耐」がキーワードで、忍耐そのものは、信仰と無神論との間の差であると著者が言っています。

Patience with God は、中国語を含む11ヶ国語に翻訳され、「2009年~2011年ヨーロッパ最高の神学的本の賞」を受賞されたそうです。日本語にはまだ翻訳されていませんが、近い内に日本語訳をも手に入れることができることを期待しております。

聖書の中のザアカイという人物がこの神学的な本の主人公になっているのですが、それは何故でしょうか。ザアカイはすべての探究者のモデルであるからです。信仰の「入口」に立つ人たちのモデル。ルカ19110節の箇所を辿りましょう。イエスの評判は、もうパレスチナに行き渡っていました。イエスが町へ来られるという噂は広まった時、多くの人々が出迎えに出て来ました。そして、イエスがお通りになるはずの道の両側には、大勢の人達が並んでいました。 ザアカイもイエスを見る為に出て来ましたが、背が低くて、イエスを見ることができないということが判って、無花果桑に登って、そこでイエスの来るのを待っていました。それで、イエスとザアカイとの出会いがありました。「ザアカイ、今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とイエスは言われました。

つまり、あなたの心に入りたい、ということ。

先ず、ザアカイの態度。ザアカイは、イエスを見る為に自分の威厳のある税務署長の地位を捨てて木に登りました。イエスに出会うために自分の地位から出ることは必要だという。好奇心のためだったと推測できます。けれども、イエスとの出会いの結果として、ザアカイの心の中で変化が起こりました。なぜなら、ザアカイはイエスと一緒に歩んで行く人たちの「外側」に立っていますが、神を求める無神論者にたとえられると思われます。

なによりも誰かを無神論者であると決めるのには慎重でなければならないと言っておくことが重要です。なぜなら、「神」という言葉はあいまいであり、ある人の神が別の人には悪魔であることがありうるし、ある人の信仰が別の人には無神論であることがありうるわけです。我々が無神論者だとするある人が、誠実に神を求めており、その神への欲求をそれにかなう霊的食物で満足させているということがありうる。「神を求める無神論者」と呼ばれる人は信仰の入り口にいて、日常性における消し散らされる生活のなかでの碇(いかり)を求めているかもしれません。

信仰は理論ではなく出来事であり、冷たい事実ではなくドラマであると言わねばなりません。それは、遭遇のドラマです。そして、このドラマを理解するには、舞台に立ち物語の主人公になり、当事者になり、その遭遇が過去にも起こり現在も起こっていることを知っている人の冷静な強さを持って愛する必要があります。信仰者も無神論者も疑いに襲われることがあります。違うことはただ一つ、つまり信仰者は「忍耐」があるとトマシュ・ハリクが言っています。

 

ご復活祭おめでとうございます

    

越(すぎこし)

司牧チーム シスター深瀬聖子

 

『われわれの救い主は、渡される夜、最後の晩餐において、御からだと御血による聖体のいけに

えを制定された。それによって、十字架のいけにえを再臨のときまで世々に永続させ、しかも愛す

る花嫁である教会に、
ご自分の死と復活の記念、すなわちいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛の

きずな
過越の宴(うたげ)を託された。この宴において、「キリストが食べ物となられ、心は恵

みに満たされ、将来の栄光の保証がわれわれに与えられる」。』

 これは、典礼憲章83:ミサと過越の神秘 の文章です。復活したイエスを思うとき、復活の恵

みに至るイエスの苦しみと、苦しみの前に
弟子たちに約束された、聖体の制定を忘れないようにし

たいものです。

ミサのダイナミズムはここを出発点としているからです。

共にいる神の最終的な愛のかたちは、聖体をいただくことではっきり体験されるのです。イエスを

いただくことで御父も共に私と存在する。または父である神の存在にイエスの御からだをいただく

ことで私もあずからせていただくことができる。・・わたしたちの人生にとってこれほど力強い保

証があるでしょうか?

 ミサにおいて最後の晩餐のイエスのことばが司祭を通して語られるとき、ホスチアはキリストの

体である聖体に変化するのです。司祭はパンとぶどう酒の上に手を伸べ、聖霊による聖別のことば

を唱えます。そして
深く一礼した後、あの記念すべきイエスの言葉を唱えて聖体を高く掲げるので

す。主日のミサでは侍者のもっとも大切な役割が果たされるところでもあります。このとき『あー

、今日もイエス様がいただけるなあ』『信仰の力が与えられるなあ』と聖体を仰ぎながら思うので

す。

 イエスの犠牲によって、わたしたちの中にイエスを持ち、共に生きるように促されること。そこ

から生活が福音化され、出会う人々に伝わっていく・・宣教の基本でしょう。

主の復活を祝いつつ、この恵みを深く味わいたいものです。

 

からしだね

 

2014年   復 活 祭    第73号      カトリック茨木教会発行誌

 


 

クエンジ・カンパタ・ダニエル神父

「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」「1ヨハネ4、10、14」

神は愛です。神に愛されている、その愛を感じたことがありますか。イエス・キリストの十字架を通して神の愛を感じたことがありますか。十字架は愛のシンボルです。ヨハネ3:16に神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神はイエス・キリストの命をかけて、あなたの命を救いました。ここに愛があります。神の本質(唯一性、永遠性、偏在性、不変性、完全性、自存性、全知全能、創造者、統治者など)、また、その属性(愛、義、公正、慈愛、恵み、あわれみ、善、知恵など)です。神の属性である愛について学びましょう。

 愛の定義  

            忍耐強い。

           情け深い。

           ねたまない。

           自慢せず、

           高ぶらない。

           礼を失せず、

           自分の利益を求めず、

           いらだたず、

           恨みを抱かない。

           
           ふぎをよろこばず、真実を喜ぶ。

           すべてを忍び、

           すべてを信じ、

           すべてを望み、

           すべてに耐える。

           
決して滅びない

 

 

愛とは?

「エロス」肉体的な愛。主に男女関係の愛。対象の価値を求める愛。自分本位の愛。見返りを求める愛。「ストルゲー」 従う愛。尊敬を含む愛。親子関係や師弟関係にある愛。「フィーリア」友情愛。自分を与えることで他人を生かす愛。「アガペー」  無条件の愛。万人に平等な愛。神が私達に与える愛。見返りを求めない愛。キリスト教でいう一般的な「愛」。

1コリント13、4-8に愛の定義が示されています。愛の定義は神の属性です。

「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」1ヨハネ4:16

 

愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

 


愛にとどまる人は:         

 

1.忍耐強い。

2.情け深い。

3.ねたまない。

4.自慢せず、

5.高ぶらない。

6.礼を失せず、

7.自分の利益を求めず、

8.いらだたず、

9.恨みを抱かない。

10.不義を喜ばず、

11.真実を喜ぶ。

12.すべてを忍び、

13.すべてを信じ、

14.すべてを望み、

15.すべてに耐える。

16.決して滅びない