礼拝会 Sr.野村興子

 昨年の五月末、九州福岡の修道院から茨木の修道院に越してきました。 

中途入学のようなかんじで、中途半端な身分でしたが、何か茨木教会でお手伝いできることはないかと、しばらく様子を見ていました。英語ミサに二回程与った時、全体的に歌声が、少し静かすぎると感じました。ここを何とかした方が...

 長年国際系の学校に携わっていた間、いつも英語ミサがありました。ミサ中一般信徒の歌声が細々としていましたので、改良すべく、信者のお母さん達に小聖歌隊を編成し、ミサ中のうたをリードするよう頼みました。互いに誘いあって十二・三人程のグループができました。国際学校ですから、多国籍の人々でしたが、日本人が一番多く、うたは全部、英語でしたが、皆見事に歌ったのです!ラテン語の歌まで。ミサの雰囲気が明るくなりました。

お母さん達は皆、練習時も含めてとても愉しんでいるようでした。スピリチュアルにも。

 あれを茨木教会の英語ミサでたとえ少人数でもやってみてはどうか、と思い立ちました。英語の聖歌は、単純で美しく覚えやすいものが沢山あります。そして、確かに、祈りそのものなのです。その身を低めたような単純さが、日本語の聖歌より、人を惹きつけるような、魅了するようなところがあるのです。きっと、茨木教会にも英語聖歌をなんとなく気に入る方が居られるのではと考え、Sr.深瀬の許可を得て、隊員を募ってみました。

 折しも十月十六日のインターナショナル・デーの英語聖歌の練習たけなわの頃でそのためにお集まり頂いたのか、それとも、英語聖歌隊を目指してお集まり頂いたのか定かではありませんでしたが、クリスマスの頃からメンバーの顔ぶれもはっきりし、クリスマス・キャロル等とても美しく歌いあげられました。

又、最初、少し“抵抗感あり”のようにみえたフィリピンの方々も徐々に打解けてこられ、日本人メンバーとの交流も僅かながら始まりました。最近は、日曜九時ミサ後の練習にも五・六名の方々が参加され、はっきりした美しい歌声と慣れた英語で、全体をリードして下さり、助かっています。

うたの内容をよく理解した故の熱心さにも、感動します。英語ミサの歌声はボリューム・アップしました。曲のレパートリーも拡がりました。いつしか祈りとして自然に口にのぼるようになると良いと思います。

こうした英語聖歌隊員の皆様の努力と協力の精神に、心からの喝さいを惜しみません。



神を探し求める共同体を目指して歩もう。

 

鹿が谷川の水を求めるように

神よ、わたしの魂はあなたを求める。詩編42:2-

主の平和 ダニエル神父

青葉若葉をわたる風も快く感じられます。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

茨木教会に任命されてから今年の春で3年目になりました。この3年間に共同体として何を大事にしてきましたでしょうか。今年度からキリストに根を下ろして造り上げられ、神を探し求める共同体を目指して歩みましょう。

1.    キリストに根を下ろして造り上げられることは:

キリストにつながって豊かに実を結ぶ:ヨハネ15:5 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

キリストの内にとどまる。ヨハネ14:20

わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。ヨハネ14:20

キリストを知る。エフェソ3:1-19 

また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

2.神を探し求めることは:

神に望みをおく イザヤ40:31

主に望みをおく人は新たな力を得,鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

神の道を知る 詩編25:4-5

主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

神のいやしと治癒と回復を受ける。エレミヤ33:3,6

「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。」皆様、「キリストによってキリストとともにキリストのうちに歩もう、キリストのうちに一致を目指そう。お互いに励まし合い、お互いの向上に心かけ、愛をもって心から尊敬し、互いに平和に過ごしましょう。

  

「主 む」

 

司牧チーム シスター深瀬聖子

 

 『われわれの救い主は、渡される夜、最後の晩餐において、御からだと御血による聖体のいけにえを制定された。それによって、十字架のいけにえを再臨のときまで世々に永続させ、しかも愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念、すなわちいつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、過越の宴を託された。この宴において、「キリストが食べ物となられ、心は恵みに満たされ、将来の栄光の保証がわれわれに与えられる。」』(典礼憲章 第二章 83)

私たちキリスト者は、当たり前のようにミサに行き、時にはミサに行かなければならないと、少しの煩わしさを感じつつ信者としての義務を果たすかのような面持ちでミサにあずかることもあるのではないでしょうか?もし、そうだとすれば今一度ミサのありがたさを再発見する必要があるように思います。

イエスにとってもう二度と座ることのできない過ぎ越しの食事の席で、その後のすべての人が座ることのできる食卓を整えられたということはすごいことです。しかもそこに私も招かれているのです。これは当たり前なことでも、義務を果たすことでもないのです。

イエスを通して神がそれほどまでに私を大切にしてくださるしるしなのです。愛されていることを主の食卓でかみしめたいものです。そこで養われるからこそ、この世の現実を生きていくことができるのです。さらにこの世の現実に主の望みや主の招きを読み取ることができるのです。

聖体拝領で主の体をいただくために私が差し出すこの手は、私の行いのすべて、私自身です。この手がキリストの死と復活の記念を受け取るのです。そして食べることでキリストと同じになっていくのです。

聖体奉仕をさせていただきながら、拝領のために差し出される手を眺めていて、一つとして同じ手の形がないことに気づきます。差し出される手は、その人固有のいのちを現わしているように思えます。

自発的にキリストの御からだをいただくその手は、一つの信仰宣言でもあるのです。同じ主のからだをいただくからこそ一致するのでしょう。ふさわしく、主の御からだをいただける私でありたいと願います。

そして、主のもとに行く日まで聖体に養われていたいと望みます。

 目に見えない神さまの目に見えるしるしである聖体を、まるではじめていただくように、感謝していただこうではありませんか!

主の復活をたたえつつ!

からしだね

2015 復 活 祭   第76   カトリック茨木教会発行誌

千里ニュータウン・茨木・高槻教会共同宣教司牧チーム

アデリノ・アシェンソ神父

私が高槻教会に居住することになったのはローマ留学の期間を終えて日本へ戻ってきた2009年の4月からのことです。共同宣教司牧制に入っていた高槻と茨木教会でドミンゴス・アリアイス神父をお手伝いしながら聖トマス大学に教授として勤めることになったわけです。2010年にドミンゴス神父が帰国され、私は共同宣教司牧のチームメンバーに任命されたのです。まる五年になりますが、2012年、千里ニュータウン教会が共同宣教司牧制に加えられ、三教会の担当者がダニエル・カンパタ神父、シスター橋本とも子、シスター深瀬聖子、私という四人のメンバーが確定されました。
感謝の気持ちにあふれていてこの五年間を振り返ってみようと考えています。教会の本質、典礼、信徒の奉仕職、それに締めくくる一年間の一か月毎に一つの願いを取り上げたいと思います。

教会の本質

皆様が茨木教会へ来られ、その中で諸活動をしておられる時、何を感じ、何を思い、何を意識しておられるのでしょうか。そして「教会」とは、どういうものであるのか。私たちはいつかこのような問いに直面せざるを得ませんが、教会の本質を探れば探るほど、出て来る定義が曖昧なイメージではないでしょうか。教会のイメージをもっとはっきりとさせる必要があると思われます。

「完成に向って旅する神の民」(『教会憲章』)である教会は、止まることも休むことも出来ない存在です。第二バチカン公会議(1962-1965)は画期的な教会刷新であり、『教会憲章』という公文書では、教会についての定義として、福音書にでてくる譬えが多いです。牧畜、耕作、漁業、建築、家庭、婚礼、羊の群れ、オリーブの木、網、船、キリストの体、キリストの花嫁など。歩み続けなければならない旅する神の民である教会は、「神秘体」、「共同体」、「運動体」という三つの基本、三つの柱、三つの側面に構成され、どの一つが欠けてもキリストの教会でなくなるということがわかります。この三つの要素がバランスよく結ばれ、完成されて行くように日々努力をしていく事が大切であります。

「神秘性が薄くなっている」とたまに耳に入ってきます。「神秘性」とは何でしょうか。「神秘」とは「普通の理論・認識を超越した事柄」ということです(『広辞苑』より)。自分自身が満たされます。そこに生活との繋がりがあり、毎日の挑戦のために力をもらうという場所とならなければなりません。第二バチカン公会議は、教会が神との交わりの秘跡であるとも表明しています。「秘跡」というのは、神の現存、神との交わりを感じさせられることです。これによって、教会の神秘性が現されるのです。教会の中に目に見えない三位一体があります。父がいて、キリストがあり、そこに聖霊の働きがあるのです。そして私たちはその三位一体の関係に与っており、神秘体にも与ることになるのです。神秘性があるように共同体の協力が不可欠です。キリスト者共同体の一致のモデルは『使徒言行録』2章42節に指摘されています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と。この箇所には初代教会の共同体の様子が要約されています。外面的な集まりだけではなくて、内的な結びつき、心の交わり、自分の運命を分かち合うという共同体の姿が見えます。その相互の心の交わりがなければ神秘性は消えてしまいます。神秘性が消えてしまったら、もうキリストの教会でなくなります。

神との出会いである典礼

典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉である。(典礼憲章10

神秘性を深く感じるのは「教会のあらゆる力が流れ出る泉である」典礼の中心となったイエス・キリストの愛の奉仕の記念、すなわち「ミサ」を捧げる時です。ミサは真に喜びの泉となるものです。ここに新しい仲間が出来、新しい共同体が生まれます。悩みや苦しみを負っているのは自分だけではない、皆が一緒になり、キリストと共にこれを担うことを知ります。それは新しい力、聖霊の喜びに満ちた場となります。

ミサのあり方についてなのですが、何らかの形で、私達の日常生活の問題、悩みや心配事、人間関係のこじれ、同時に喜びや希望などをミサの中に統合出来るようにしなければなりません。イヴ・コンガールが指摘しているように、ミサが信徒の日常の問題を取り上げない限り、いつになっても社会に影響を及ぼすことは出来ません。私達の日常の問題を教会の扉の外に置いて、ただ純粋な心でキリストと一致しようとすれば、それは単なる虚構にすぎません。

「聖餐は教会のアイデンテイテイの公シンボルである」と言われています。ミサは個人の信心の場ではなく、教会にとってそのアイデンテイテイを表す文化的、歴史的な表現です。ミサはキリストの体の秘跡であり、すなわち教会の体の秘跡です。ミサを捧げることによって、私達はキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにします。

忘れてはいけないことの一つを取り上げますが、それは『典礼憲章』7項に記されているイエス・キリストの現存についてです。キリストは、「常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している。【】ミサの犠牲の内に現存している。【】諸秘跡の内に現存している。【】キリストは自身の言葉の内に現存している。聖書が教会で読まれる時、キリスト自身が語るのである。【】キリストは、教会が懇願、賛美を歌うときにも現存している」ということです。

典礼は、人間的であると同時に神的であり、見えるものでありながら、見えない要素に富むことが、教会に特有のものです。典礼は神との出会いであると言われています。

信徒の奉仕職

最高永遠の司祭キリスト・イエスは、自分のあかしと奉仕を信徒を通しても継続することを望んで、自分の霊によってかれらに生命を与え、よいことと完全なことのすべての実行へ絶えずかれらを押し進めている(『教会憲章』34)。

イエス・キリストの救いの業を継続することは教会の使命です。教会の活動は「預言職」、「祭司職」、「王職」という三つの分野に成り立っています。洗礼・堅信の秘跡によってすべての信徒は、固有の任務と役割を果たして、教会の使命に与り、宣教活動(預言職)、典礼活動(祭司職)、司牧活動(王職)を実現するように呼びかけられます。

長い間、教会は、叙階の秘跡を受けた聖職者或いは修道者が、このような三様の教会活動の中心的な担い手であるかのように考え、信徒は聖職者や修道者に導かれ従っていく者であるという、いわば聖職者中心の教会観に支配されてきました。しかし、第二バチカン公会議は、信徒も洗礼の恵みによる権利及び義務として、教会の宣教活動、典礼活動、司牧活動を遂行する者であることを明らかにし、信徒の共通祭司職、このような信徒の使命を「共通祭司職」または「信徒使徒職」と呼びました。また信徒固有の使命として、信徒が社会生活に密接に関わっているという性格(『教会憲章』31参照)を強調しました。

締めくくり

教会の本質、典礼、信徒の奉仕職という三つの柱が元気な雰囲気を作るための不可欠な要素です。私がここで皆様と一緒に歩ませていただいたのは光栄です。この私の人生の旅路の期間には、矢張り谷もあれば、丘もありました。太陽の輝く日もあれば、冷たい雨に濡れる日もありました。けれども、そのような冷たい日々の経験に学び成長し、太陽の輝く日という思い出を大切な宝として一生大事にしたいと思います。遠藤周作の言葉を借りて言えば、本当の出会いがあるたび毎に、互いに消すことのできない痕跡を残すのです。私はその本当の出会いを味わうことが出来ました。だから、消すことが出来ない痕跡が残されています。

私はよく失敗があったに違いない。文化風土の摩擦のような違い、異なった考え方、独特な人格など。皆様に多大なご迷惑をお掛けしたこともあっただろうと思います。お詫び申し上げます。どうかおゆるしください。

最後になりますが、皆さまのために残したい願いを取り上げます。

残す12の願い

4月復活の喜び。5月子供と母親の素晴らしさを実感する。6月一人ひとりがキリストの体の一部であることを実感し、人間関係を癒す。7月心からの挨拶を深める。8月今の自分の人生のため、神様と先祖に感謝する。9月敬老の日を迎える方々から学び、奉仕する。10月大自然の恵みを喜ぶ。11月聖書を中心にする。12月誠心誠意待降節黙想会に参加し、聖母マリアにならってイエスの誕生を静かに迎える。1月家族を中心にする。2月高山右近にならい、貧しい人を助け、病人を訪問する。3月誠心誠意四旬節黙想会に参加し清い心で復活を迎えると決意する。これはわたしの12の願いです。

ご復活の喜びを申し上げます

主のご降誕の喜びを申し上げます。その喜びを互いに伝えあいましょう。