黙ることから沈黙へ

                   司牧チーム シスター橋本とも子

 

“主の降誕おめでとうございます

  幼きイエス キリストからの祝福が豊かにありますように“

 

 私は静かに神を待つ、私の救いは神からくる。(詩編62

 

この詩編を何度となく、祈り続けた待降節でしたが、日々思いもよらない出来事が起こってくるなかで、静かに神を待つということは不可能のような気がします。何故なら人が静かに黙るということは難しく、神の恵みが必要だと思います。ある時(黙る)と言うテーマの記事を読み考えさせられました。

 

「黙るとは、単に話すことをやめることではない、そして黙ることをやめたときに話しだす。しかしその話の内容たるや、なんと空疎で冗長なことか。大半は愚痴か文句か弁解か、自慢かウソかお愛想か。もし地獄があるならば、生前自分がしゃべったことを細大もらさず聞かされるところにちがいない。

ことばがむなしく響くのは、ことばの背景の豊饒なる沈黙の世界に根ざしていないからだ。人はきちんと黙れなければ、きちんと語れない。どのように語ろうかと意気ごむ前に、まずどれだけ豊かに黙れるかを問題にするべきだ。

黙ることをあきらめたことばは、人を傷つけ、争いを生む。そのようなことばをどんなに重ねても、人はいやされない。どこまで語り合っても、人は理解し合えない。いつだって孤独を生むのは、沈黙ではなくことばなのだ。

心に渦巻くことばを鎮めて黙ったときこそ、本来の自分自身を見いだすときであり、初めて他者に出会えるとき。迷ったとき、行き詰まったとき、最も苦しいときは、ことばでごまかさずに、まず、黙る。深く、静かに、ゆったりと。」

(星言葉)より 晴佐久昌英著

馬小屋のイエス キリストに出会えたのは牧場で羊の番をする羊飼いたち、東の夜空に輝いた星に導かれた博士たちでした。彼らが持っていた内なる沈黙の世界が私たちにも必要だと思います。世の価値観に塗りつぶされているこの世界の中で内なる心の沈黙をもって、私たちが導かれていくために、自らを知り、心の貧しい者となって、導かれる者の立つところに立つ。それは羊飼いが立っていたところ、博士が訪ね導かれていった歩み。私たちもこんな歩み方ができますように祈りたいものです。





神のいつくしみのあらわれ、クリスマス

司牧チーム シスター深瀬聖子

 

いつくしみの特別聖年が始まりました。今祝う主の降誕は、父である神の私たちへの最も最高のいつくしみのギフトです。目に見えない神が見えるものとして人となり、私たちの間にお住みになった。このイエスの生き方に倣うことで私たちも神のいつくしみを人々にあらわしていくようにしたいものです。

 教皇フランシスコはこの大勅書の中で次のように述べています。

『この聖年の間に経験すべきなのは、自分とはまったく異なる周縁での生活 ―現代世界がしばしばその劇的な状態を引き起こしています― を送るすべての人に心を開くことです。今日の世界には、どれだけ不安定で苦しい状況があることでしょうか。どれだけの傷が、もう声を上げることのできない多くの人の肉体に刻まれていることでしょう。それは、豊かな人の無関心によって彼らの叫びが小さくかき消され、それ以上声が出せなくなってしまったからなのです。この聖年の間に、教会はこれまでにも増してこの傷の手当てをし、慰めの油を塗り、いつくしみの包帯を巻き、連帯としかるべき気遣いをもって世話をするよう呼びかけられることになります。侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度、そうしたものに陥らないようにしなければなりません。』 (この続きも読まれることをおすすめします)

イエス・キリストの降誕のエピソードの一つ一つを丁寧に黙想してみましょう。

現代の馬小屋はどこにありますか?現代の羊飼いたちはだれですか?この世界で、飼い葉桶に寝かされている幼子たちはどこにいますか?主の栄光の輝きはどこを照らしているのでしょう?

 心を静かにし、耳を澄ませ、目を凝らしてみれば、案外わたしの一番身近なところにイエスを見いだすことができるのではないでしょうか?

世界の平和を願いつつ、まず、わたしが平和を作り出すものとなりますように。

メリークリスマス!!


新年にあたって

マルセル・フォールテン神父

 

 新年の喜びを皆様に申し上げます。私たちは豊かで安全な日本に生きるのが当たり前のようにこれを味わっているでしょう。今年、「慈しみの特別な聖年」の間、味わっている健康、命、平和などを神様からの恵みとして考え感謝を表すように勤めれば、これは『回心』するということになるでしょう。心の中にイエス様を迎えることによって自分の考え方、行き方も変わるでしょう。

 何十年前に読売新聞に呼んだ記事ですが、“共産党はロシア人の自由を何年も奪われたけれどもそのこころにあった信仰を取ることは出来なかった”。自由になった国民は聖堂を訪れて家の中に隠れてあったイコンを取り出して祈るようになったそうです。

 洗礼によって心の中に私たちは神様の愛を新たに体験するのは、これこそこの聖年のための教皇フランシスコの望みです。

 アメリカのニューヨークの大司教でオコノル枢機卿様はマザーテレサと出会って次の質問をしました。「マザー、今宣教のために色々考えて実行していますが、その結果はあまり見えない。どうしたらいいでしょうか?」マザーテレサが答えた言葉は「Give God permission!」それは、“神様に許可を与えてください。”意味は、あなたの活動の中で神様が自由に働くようにしてください、このことばについて私は何回も考えました。結局私たちは自分の経験、力に頼って(ある意味で)自分の腕だけで何でもやりますが、もう少し神様を祈りによって呼び込んで共にすべてをすればなにかが変わるでしょう。この新しい年の間、次のことを実行するように勤めればなにかが変わるでしょう。個人の生活、家庭の生活、仕事場にも、神様は自分の“協力者”となるように。

 さて、今年は日本では「さる年」となって、「見ざる,聞かざる、言わざる」と有名なことわざを思い出すでしょう。わたしの机の上にある『三匹』の猿は違うポーズをしています。

・一番目は全部見えるように。

・二番目は全部聞えるように。

・三番目は全部言うように。

肯定形に代えると: 良いことなら、よく見えるように、よく聞くように、そうして多くの人々に話すように努めれば、今の世界のために、周りの人々のために大切な役割を果たすことになるでしょう。

 この新しい年の間、神様の慈しみを体験して、その喜びを人々と分かち合うことが出来ますように。また神様からの大切なめぐみとして健康、幸せを味わえますように皆様のために神様の豊かな祝福を祈ります。


  

道徳の罪と宗教の罪の違い

梅崎隆一神父

 

「道徳」という言葉は、もともとラテン語のmosという言葉が日本語に訳されたもので、もともとの意味は「習慣」です。日本ではお茶碗を抱えて食べることが道徳的に善いとされています。でもお隣の韓国ではお茶碗を抱えることは道徳的に悪ということになる。

上記のことぐらいなら良いのですが、タイという国のある民族では歳を取った人はアヘンを吸って余生を過ごすことが許される。やがて老人はアヘン中毒になって孫を売るなんてことが起ったりする。そして民族の習慣である以上、道徳的には問題は善ということになる。このように道徳は人が決めるルールだから、場所や時代によって善悪が変わる。戦争中正しいとされていた教科書の内容が戦後墨で塗られるようなもので、ころころと変わっていく。

でも、国民や民族を超えて人が勝手に決めることのできない、人の尊厳はあるはずです。そして人が決められない以上、人を超える存在がなければ人の尊厳を守ることができません。それは神様を信じていない人でも人間らしく生きたいのであれば認めざるを得ないことです。

ゆるしの秘蹟を受ける前に「良心の究明」などに使われるリストには、「頼まれたときに断ったことはありませんか」なんてあるけど、「見ず知らずの借用書を書かない相手に『100万貸してくれ』と頼まれたのにそれを断ったら罪」とするなら、「良心の究明」のリストが神様にとって代わります。こうして罪が一つ増えることになります。

罪の根っこにあるもの、それは神様以外のものが人間を救うはずだと信じることです。道徳、お金、権力、科学技術などが神様よりも素晴らしく、人を救う力を持っていると考えることから罪は始まります。

戦争によって救いがやってくると信じている人たちは「最大多数の最大幸福」のために少ない犠牲に目をつぶり、電気によって救われると信じる者は原発の安全神話に固執したりする。命を与えた神様から人が離れたら、人は生物として生きていても、死んでしまいます。やがて生物としての命も粗雑にしていきます。

「自分の嫌いな人間がこの世からいなくなったら幸せになるのではないか」と思って人を殺したら、かえって生きることが苦しくなってしまう。自分にとって得だと思ってやったことで逆に苦しくなること。それが罪です。

キリスト教の救いとは、人が「神の子」と認められることしかありません。天の父を捨てて死んでしまった息子がもう一度神の子どもと認められたように、ゆるしの秘蹟を通して私たちも救ってくださる方の元に返ることができますように。

から

2015 クリスマス   第78   カトリック茨木教会発行誌

「キリストの平和」

    

                                   
主の平和
                                 ダニエル神父

 

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ2:14、この聖書の箇所は天使達がイエスの誕生を称えるために歌った讃美歌です。「神に栄光」と「人に平和」ということをキーワードにしながらクリスマスの意味について考えてみたいと思います。

「神に栄光」とは何でしょう。「人に平和」とは何でしょうか。今回は天使達が歌った平和に主に考えたいです。

「平和」はヘブル語の「シャーローム」の訳です。「シャーローム」は神の栄光の地的表現の総称ということができます。 神、国、人に対してはそれぞれ「平和、和解、和平」、個人的には「心の平安、平穏、安心、安全」、商業的には「繁栄」、肉体的、精神的には「健康、健全」、生命的には「充足」、学問的には「知恵」、宗教的には「救い」、究極的には「勝利」。
平和とは何でしょうか?一言で「平和」と言っても、多様な使われ方がされています。たとえばヘブライ語における「シャーローム」は挨拶として用いられ、日本風にいえば「ごきげんよう」といった形になるでしょうか。
そして、戦争がない状態としての平和があります、そして聖書において「平和」という言葉は、平和は「状態」というよりも「関係」の概念でとらえられるようなことが多いように感じます。また更に進んで、「平和」とは、戦争や争いが無いだけでなく、飢えや悲しみ、絶望などが無い、自然と人間の調和、人間が生き生きと生きられる状態である、という説明もされます。

こうした意味合いをもっているのが「シャーローム」です。永遠の神の栄光がこの地上に現わされるとき、そこには「シャーローム」が実現されていくのです。

イザヤが預言した「平和の君」「とりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる」(イザヤ9:5)は、使徒パウロによって「キリストこそ私たちの平和」「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」 (エフェソ2:13)と宣言されています。「平和」は福音の重要な事柄です。「平和」とは、天と地、神と人、ユダヤ人と異邦人など、人間の罪が作り出す「隔ての壁」を打ち壊して、二つのものを一つにすることであり、それを実現してくださるのがキリストです。イエス・キリストは、十字架上の死によって、わたしたちの罪を贖って下さいました。私たちの代わりに支払うべき代償をかぶって下さいました。その罪というのは、それぞれの人が自分たちの枠組みの中で、理想的な「平和」を諦めてしまっていることを指しているのではないでしょうか。「キリストは私たちの平和」であります。それは常に、隣人との間に、イエスがたって、異なる者と異なる者を結びつけようとしています。「平和」とは、何かの状態ではなく、人と仲良くなろうとする気持ちではないでしょうか。主イエスが常に「平和」を求めて、歩まれたこと、そしてイエス・キリストが、私たちの平和を求める力の根拠であることを覚えて、2016年を歩み出したい、と思います。アッシジの聖フランチェスコの平和を願う祈りを称えながら平和の顔である、愛すること、赦すこと、一致、真理、信仰、希望、光、喜び、慰めること、理解すること、自分をすてることを生きることを約束しましょう。

主よ、私を平和の道具とさせてください

私にもたらせてください。

憎しみのあるところに愛を、

罪のあるところにゆるしを、

争いのあるところには一致を

誤りのあるところには真理を、

疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、

闇のあるところに光を、

悲しみのあるところに喜びを。

あぁ、主よ、私に求めさせてください。
慰められるよりも慰めることを、

理解されるよりも理解することを、

愛されるよりも愛することを。

日とは自分を捨ててこそ、受け、

自分を忘れてこそ、自分を見出し、

赦してこそ、赦され、

死んでこそ、永遠の命に復活するからです。

 (Fr.渡辺義行o.f.m. 訳)