2016年 復活祭   第79号   カトリック茨木教会発行誌

                                                  

                               ダニエル神父
カトリック教会では

中世期から伝統的に「七つの慈善のわざ」を教えています。それは、福音書に基づくものであり、隣人愛を具体的に生かす言葉です。「カトリック教会のカテキズム」2447条には 次のように書かれています。「慈善のわざ」とは、身体的・精神的に困っている人々を助ける愛の行為です。教え、助言し、慰め、励ますことなどは、ゆるし、耐え忍ぶことなどと同じように、精神的な慈善のわざです。とくに飢えている人に食べさせ、宿のない人に宿を提供し、着る物を持たない人に衣服を与え、病人や受刑者を訪問し、死者を埋葬することなどは、身体的な慈善のわざです。

A.「身体的な慈善のわざ」

身体的な慈善のわざを行うことを約束してください。出来る時期に一つ、選んでください。* 毎日  *毎週  *毎月  *毎年

1.「飢えている人に食べさせることマタイ25:35

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、」

2.「渇いている人に飲み物を与えること」マタイ25:35

「お前たちは、わたしがのどが渇いていたときに飲ませ」

3.「着る物をもたない人に衣服を与えること」マタイ25:35

「お前たちは、わたしが裸のときに着せ、」

4.「宿のない人に宿を提供することマタイ25:35

「お前たちは、わたしが旅をしていたときに宿を貸し、」

.「病者を訪問すること、」マタイ25:36

「お前たちは、わたしが病気のときに見舞い、」

6.「受刑者を訪問すること」マタイ25:36

「お前たちは、わたしが牢にいたときに訪ねてくれたからだ」

7.「死者を埋葬すること―、これです。」トビト1:17

「飢えた人々に食べ物を与え、裸の人々に着物を着せ、また同族のだれかの死体がニネベの町の城外に放置されているのを見れば、埋葬した。」

B.「精神的な慈善のわざ」

精神的な慈善のわざを行うことを約束してください。出来る時期に一つ、選んでください。* 毎日  *毎週  *毎月  *毎年

1.「疑いを抱いている人に助言すること」2テモテ4:2

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」

2.「無知な人を教えること」2テモテ3,16―17

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」

3.「罪人を戒めること」1テモテ5:20

「罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。」1テモテ5:20

4.「悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること」ヨハネの黙示録21:4

「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

5.「もろもろの侮辱をゆるすことマルコ11:25

「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

6.「煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと」マタイ5:43-44

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

7.「生者と死者のために神に祈ることです」マカ12:44

「もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったでろう。」



し る し と 信 じ る 心

 

   

                       共同宣教司牧チーム

                     シスター 橋本 とも子

 

<週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方がペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。>(ヨハネ2019

復活祭の大祝日に朗読された聖書の箇所です。空の墓がキリストの復活のしるしであったのです。また「イエスは必ず死者の中から復活される」という聖書の言葉もしるしとなります。

このしるしと信じる心について聖書のある箇所を見てみますと、なにか信仰生活の助けになるように思えます。

「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」(ヨハネ454)一回目はカナでの水がぶどう酒になるしるしです。この箇所ではカファルナウムから王の役人が来て、イエスに息子の癒しを願うのです。「彼はカファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。

 

イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。下って行く途中、癒されました。この役人は息子がイエスが言われたのと同じ時刻に癒されたことを知り、彼もその家族もこぞって信じた。

この箇所において役人にとって第1のしるしは人々のイエスにたいする証言、だから彼はイエスに息子のことを願いました。第2のしるしはイエスの言葉でした、信じて帰って行きました。第3のしるしは、「あなたの息子は生きる。」と言われた時刻に、息子が癒されていました。それ故に家族がこぞって信じるに至りました。

このしるしのいくつかは聖書にでてくる他のしるしに比べて明確に超自然的ではないですが、わたしたちの生活の日々においても、身近な人や、教会の中での出会い、説教またあらゆる出来事を通して、神が私たちに語りかけておられるのに気付きそして信じ応えていくことが大切ではないでしょうか。そのような中で、神が恵みを私たちの日々の生活に織り込まれるのです。そしてしるしによって、イエスが実在されること、私たちを愛しておられること、私たちと共におられることを信じる心が強められていくのだと思います。





わたしたちのガリラヤで主にお会いしよう!

 

司牧チーム シスター深瀬聖子

 

 毎年、復活祭を迎えるたびに、『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』というマタイによる福音書の一説が心に響きます。弟子たちにとってのガリラヤ。そこは、イエスと出会い、イエスに呼びかけられ、イエスの言葉を聞き、イエスの癒しを目撃したところ。共に食事し、共に祈った場所。そして彼らの生活の場所。復活した主はどの弟子よりも先にその場所で彼らを待っておられる。

 ともすれば復活されたイエスを特別な場所に探そうとするわたしたちですが、実は主は、わたしたちの生活の場の真っただ中に先に着いておられる方なのです。わたしよりも先にわたしの場におられわたしを待っていてくださる方。わたしの人生の現実がどんなに大切なところか、感謝せずにはいられません。 

 2013年の復活徹夜祭ミサでフランシスコ教皇は説教の最後に次のように話しておられます。

 「復活されたイエスと共に人生を歩みましょう。イエスを友とし信頼して共に前に向かって進んで行きましょう。彼は命なのです。今この瞬間までもしも彼を遠ざけていたのでしたら、一歩前に踏み出しましょう。イエスは手を大きく広げあなたを受け入れてくださるでしょう。もしもこれまで無関心であったのでしたら、イエスとかかわるリスクをとりましょう。決して失望することはありません。イエスに従うことは難しく見えるかもしれませんが、恐れないでください。イエスを信じましょう。自信を持ちましょう。彼はいつもそばにいるのですから。イエスはいつもあなたがたと共におられます。イエスはあなたがたが求めている平和を与え、彼が望まれるように生きる力を与えてくださいます。」

 イエスは目に見えない御父の、目に見えるみ顔。わたしの生活の真ただなかで待っておられる復活した主に出会うとき、まさしくそれは御父と出会っていることになるのです。小さな群れであるわたしたちですが、力強く生活を通して復活された主を証しして生きましょう!信仰を強めていただきましょう。これこそわたしたちの真のいのちなのですから・・

ご復活、おめでとうございます!


イエス・キリストのご復活の喜びを

マルセル・フォールテン神父

 

皆さまに申し上げます・アレルヤ

 私の国(カナダ)に春は非常に興味深いものです。

大雪の下から水が出て流れることを見ることは本当に喜びを与えるようなできごとです。この水は雪の下にあるお花、草などのものがよみがえって表れて来るとのしるしです。

だから復活祭に味わう喜び、希望、力などを大自然に起こることとともに味わうことは自然かのようなことです。

「命の尊重」は命の美しさと神秘からくるものだと思います。

今、毎日テレビや新聞によって知らせられるテロリストと人殺し、事故などによってこんなに粗末に命をされるのは悲しい事です。それで、私はテレビやビデオのドラマを見ることは出来ない。

日本の文化である侍(さむらい)の映画を見ることは出来ません。

 

さて、イエス様の復活祭は十字架の死によって私たちが得られた

永遠の命を大切にするとともにすべての命を尊重する招きでもあります。まもなく咲く美しい桜をみると大自然の恵みを感謝する心を与えるでしょう。

 

 永遠の命の神様、自然な命の神様を賛美されますように。

アレルヤ!アレルヤ!

 


  

秘蹟と司牧

梅崎 隆一 神父

 

一年間北摂東ブロックでお世話になったのですが、茨木教会のことを振り返ると、定期的に決まっていた仕事はミサだけで、その他には何もなかったので、皆さんと深く触れ合う機会がなく、申し訳なかったです。

北摂東ブロックに派遣されるにあたり、大阪教区から届いたファックスには、「司牧の仕事もお願いいたします」と書かれていましたが、司牧の仕事ができなかったように思います。

ミサは秘蹟です。目に見えない神様を茨木教会の一人ひとりが出合うことによって、目に見える方法で神様との出会いを示していくことが重要です。人と人との関わりが愛、信頼、平和といった素晴らしい実りを結ぶように、神様とつながっている人も豊かな実を結びます。

でも、ミサは義務で義務の遂行のために神父さんが必要という理解だったら、神父さんの存在はご聖体製造だけで十分ということになり、ご聖体さえ製造してくれていたらそれで良いとなってしまいます。義務を果たすことには達成感はあるかもしれませんが、私たちの生き方が変わらなければ秘蹟の意味がでてきません。

ミサが終わってから私たちは、神様を愛することと隣人を自分のように愛することを実践することによって、私たちがいただいたものは確かにキリストの体であったことを証していきます。

私は子どものことが好きだから、お泊り会やキャンプ、バンドの演奏などを通して、キリストに導かれている者として豊かな実りを喜びあうことで司牧の仕事をしてきたのですが、今回は全くできなかったのでそれが心残りです。

東京では司牧の仕事はできないのですが、新しい出会いのために準備することにいたします。


から