2016年 聖母被昇天   第80   カトリック茨木教会発行誌

                                               

                               ダニエル神父


聖書の朗読:マタイ5:3-12(山上の説教)

 5:3「 心の貧しい人々は幸いである、/天の国はその人たちのものである。
 5:4 悲しむ人々は、     幸いである、/その人たちは慰められる。
 5:5 柔和な人々は、    幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
 5:6 義に飢え渇く人々は幸いである/その人たちは満たされる。
 5:7 憐れみ深い人々は幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
 5:8 心の清い人々は、  幸いである、/その人たちは神を見る。
 5:9 平和を実現する人々は幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。
 5:10 義のために迫害される人々は幸いである天の国はその人たちのもので ある。
 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口 を浴びせられると
    き、あなたがたは幸いである。
 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより 前の預言者たちも、
    同じように迫害されたのである。」

 一般的に幸福とはどの様に考えられているでしょうか。皆様にとって、幸福とは 何でしょうか。広辞苑と言う辞書には「めぐりあわせの良いこと、満ち足りた状態」 とありました。収入が増えたとか、家族団欒の時が持てたなど、身の回りで何か良 いことが起こり、心が満ち足りる状態を幸福と考える。よく分かる気がします。
 しかし、これから詳しく見てゆくことになりますが、山上の説教が教える幸福は、 それとは随分違っています。この世の言う幸福が、私たちの周りの状況、出来事に 左右されるのに対し、イエス様はそれらに左右されない生き方、性質を身につける こと、ことばを代えて言えば、本当にイエス様の弟子として生きることが幸いであ ると教えているからです。

イエス様を信じる人の姿が八つの面から描かれています。神様の前に自分には何一 つ良いものがなく、イエス様による罪の赦しに信頼することしかできないと認めて いる心の貧しい人。自分の罪を心から悲しむ、悲しみの人。また、自分の罪がいか に深いかを覚え、へりくだった態度で生きる柔和な人。神様の喜ばれる義(ただ) しい生き方を追い求める義に飢え渇く人。神様のあわれみを受けた者として、他の 人にもあわれみをもって接するあわれみ深い人。罪に汚れた心を清くしてもらった 心の清い人。神様との平和を与えられているがゆえに、自らも他の人との平和な関 係につとめる、平和をつくる人。最後は義のために迫害されたら、それをもって天 の御国を与えられていると確認し、喜ぶ人でした。

あなたの心はどの程度まで成長しているでしょうか

マタイによる福音書 5:3-10 を読んで、あなたの心がどの程度まで成長しているか、 次のことがらについてあてはまる数字を○で囲んでください。あてはまる度合いが 高ければ4に、低ければ1に○をつけてください。

心の貧し人: 自分の力の限界があることを認めている。神の助け、と仲間の支え を求める。
                                            低 1 2 3 4 高

悲しむ人: 人生における虚しさを本当に感じることができるところまで来ている。 恥ずかしがらずに、       自分が傷ついている時にそのことを人に知らせたり、人の嘆き 悲しみをわかちあったりす       ることができる。イエス様がなさったように嘆き悲しむ ことができる。    低 1 2 3 4 高

柔和な人: 常に自分が強くなくても構わないのだというところまで到達している。 自分は人に対して思       いやりがあり、やさしくすることができる。神に対して自分の 生活をコントロールしており、       常に『勝つ』という必要はない。                          低 1 2 3 4 高

義に飢え渇く人: 神を知りたいと思っており、自分の人生にとって神の御心が何 物にも勝るものだと        思えるところまで到達している。自分自身の金銭上の利益、仕 事における成功、あるいは      、仲間によって受け入れられることよりも、あらゆる点 において、神の御心を思う方がワク        ワクした気持ちになる。自分が意思決定をする 場合に、神の御心を大事にしたい。
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憐れみ深い人: 傷ついたり、孤独であったり、悲嘆にくれている人の気持ちを理 解し、苦痛の中にい       る人々とともにいると感じることができるところまで到達して いる。神は私に人の苦難に対       する感受性を与えて下さっている。                        低 1 2 3 4 高

心の清い人: 私には何も隠す物や隠すことがないので、神や人に対して完全に率 直で正直でいるこ       と(隠し立てをしないでいること)ができるところまで到達して いる。私は気取る必要、私で       は無いものであろうと取り繕う必要がない。                   低 1 2 3 4 高

平和を実現する人: 自分と自分のまわりにいる人々の間のコミュニケーションを 取れるような状態に       保つように本当に取り組むことができるところまで到達して いる。私は怒りや意見の相違       をすぐに処理し、悪化させることはしない。お互いを 傷つけないで、お互いの相違を何とか       解決するように、私の周りにいる人々を励ま す。               低 1 2 3 4 高

義のために迫害される人: 私は自分が何のために生きているのかを知っており、 この目標のために       は、精神的、肉体的苦痛を恐れないし、必要とあれば、死をも恐 れないというところまで到       達している。私は、『非難』を受けることも、正しいこ とに対して孤立することもいとわない。       自分を哀れんだり、独りよがりにならずに 非難を受けることができる。  低 1 2 3 4 高




聖母被昇天の祭日を祝って・・

                                    司牧チーム シスター深瀬聖子

 2016年の聖母被昇天の祭日に、とくに教会の母マリアをながめ ましょう。  

 教会憲章の第 8 章はキリストと教会の神秘の中の神の母、聖なるお とめマリアについて記しています。その中に次のように書かれた箇所 があります。『神の恵みによって、キリストの諸神秘にかかわった神の もっとも聖なる母として、子に次いですべての天使と人間の上に高め られたマリアが、特別な崇敬をもって教会からたたえられるのは当然 である。確かに、聖なるおとめは、最古の時代から「神の母」という 称号のもとに敬われ、信者たちはあらゆる危険と必要に際して、その 保護を祈り求めつつ、そのもとに避難してきた。 』
 
まさに、現代において私たちはこの母のもとに避難するよう呼ばれ ているのではないでしょうか。毎日の世界で、またアジアで、そして 日本で起こる目を覆いたくなるような出来事は、人類を超える方の力 により頼む以外ないように思えます。

 神の計画にすべてをゆだね、救い主の母となったマリアを、十字架 上でキリストは私たちに、私たちの母として託してくださいました。 初代教会で弟子たちともに祈るマリアは、この小教区でも祈りをささ げる私たちと共に祈っていてくださいます。

 天に上げられたマリアは、今も旅する神の民の希望を支え導いてお られます。

 何気ない毎日の生活の中で、わたしをイエスキリストの生き方に変 えていく時、聖母マリアは共に力強く私を支え導いてくださいます。 どんなときにも希望を失うことなく、天の国を求めながら、深い喜び のうちに与えられた『わたし』を聖化させていきましょう。

 聖母マリアの祈りに心を合わせつつ・・・・

 

 


「聖母被昇天」

                                               清川泰司神父

 今年も 8 月 15 日、聖母被昇天祭を迎える。聖母被昇天がローマ・カトリック教会の正式な教義となったのは、1950 年のことである。その教えは、イエスの母マリアが、人生を終えてから霊肉ともに天に挙げられたとされる教義である。つまり、聖母マリアは神の人類救済計画の特別な使命を受
け、それを生きたことで天国に召されたという教えだ。

 私は、19 世紀から現代までの教会の歩みと、聖母マリアに関する事柄と、その時代背景に興味をもっている。その理由は、歴史を歩むカトリック教会に働く、神の姿が見え隠れするからだ。

 19 世紀、ヨーロッパでは人々の生活、また精神性が急速に変化してゆき、そして、人間の知恵を真理とする合理主義者が、旧態依然のカトリック教会の姿と素朴に神を信じる信者たちを馬鹿にし、教会を離れた。そして、彼らが、社会を席巻する事になった。

 その歴史の中で、奴隷のように働かされ苦しむ人々は、無知で素朴な、特に識字能力のない人々が多かった。その人々がカトリック教会に救いを求め聖母マリアの母性により頼む信心が盛んになる。このころ、教会は社会に対しての影響力がなく、貧しくされた人々を受け止めてゆくしかなか
った。皮肉なことに、この時、教会は社会のメインストリームから外されることで原点に戻る可能性に開かれた。そして、教会は、貧しくされた人々が熱烈に信心する聖母マリアを高めるため「無原罪のマリア」の祝日を1854 年に制定したのである。

 一方、教皇は、神を無視した人間の知恵による繁栄から生まれる被害者、つまり労働者の権利について、また神の似姿としての人間の尊厳の回復の為に、社会教説を出した。それが『レールム・ノヴァルム』(1891 年)である。これを機に、現代に至るまで、教皇は、神を無視し、人間の知恵と欲
望を絶対化する事によって生まれる様々な問題に対して、社会教説を出し続けている。

 20 世紀に入っても、人間の愛のない知恵、つまり欲望を背景に持つ人間の拙い秤が、人間同士を分裂と対立に招き、第一次、第二次世界大戦という悲劇を起こすことになる。その後も、神の愛を無視した人間の知恵による様々なイデオロギーが現れ、その対立の中で、多くの人々が傷つけられ、おびただしい被害者を生む事となった。

 戦後、教会は、被害者の心を癒しつつも、人間の知恵を超えた「神の御心」に従い希望し生きた聖母マリアを信者の模範であることを強調するために 1950 年に被昇天のマリアを教義に制定したのである。

 その後、第二バチカン公会議によって、本来の聖母マリアの位置づけの確認が行われた。教会は、聖母マリアを、イエスの生涯に深くかかわる神の救いの計画の協力者として位置づけ、それを正式に確認したのである。

 これにより、信者も、聖母マリアを模範にし、「神の国」の実現のため
の計画の協力者となることが意識づけられた。その点で、聖母マリアは、私たち信者にとって歴史を歩む中、重要な役割を担っている。

 日本の場合、被昇天の祝日は、終戦記念日にあたる。ここに大きな意味がある。聖母マリアも、約 2000 年前、神をも利用する人間の思いが蔓延する社会で息子を殺されたのである。「神の御心」から離れた人々の病によって殺されたのである。このイエス死、そして彼が残した言葉と行い、そして復活により、私たち人類は、人間の普遍的病を見出すことが出来る 可能性に開かれた(イザヤ 53・4参照)。約 70 年前、日本人も人間の病を 痛いほど知らされた体験をした。

 今、一度、戦争はどのように起こったのか、福音の視点から、人類の病を見つめ、真の平和とは何かを求めることが必要になっている。イエスの生涯を見つめ「主の御心」を思いめぐらした聖母マリアのように・・・

 


  

 平和のための愛の力

                                      マルセル・フォールテン神父

 平和の世界を作ることは国の責任者でしょうが、私たちにできることは 何でしょうか?

 私たちも平和のために祈ることはとても大切なことです。また毎日の生活において小さなことでも平和の道具であるようにつとめなければなりません。励ましとなるのはある国に英雄的為ことまでする人もいます。次 のことは一つの例です。

 数年前にアイルランドと英国との間に争いがありました。その時にエンニスケレン―英国の町―というところに、テロリストの爆弾がありたくさんの人々が死にました。その中に一人の処女もいました。家の下でお父さんと一緒に閉じ込められました。お父さんは彼女の手を握って励ましのこ
とばを言いましたが突然娘は:「お父ちゃん。大好き!」彼女の最後の言葉でした。お父さんは、その後救われましたが、娘のこの最後の言葉で力づけられて質問する新聞記者に:「僕はだれにも怒りをもっていません。
この悪いことをした人々に対して妬みをもっていません。今晩彼らのために祈ります。これから毎晩彼らのために祈ります。神様がが許してくださるように。ただ、またこういうことをしないようにかれらの回心のために祈ります。」ゴルドン・ウイルソン―亡くなった処女のお父さん―は娘の愛の最後の言葉と信仰に励まされてこの恐ろしい出来事を平和の素晴らしい証に変えました。今でもこの町の人々は出来事よりウイルソンさんの 言葉を思い出しています。

 今のいろいろな争いを解決するのは人間の力を越えるようなものです。
しかし愛のことばには先の出来事によってしめされるように英雄的為の ために力を与える力もあります。

  被昇天の聖母は私たちと全世界のために愛と許しによる真の平和の恵みを祈ってくださるように願いながら私たちも小さなことでも平和の道 具でありますように。


から