2016年 クリスマス   第81   カトリック茨木教会発行誌

                                               

                               

ダニエル神父

 

いつくしみの特別聖年を過ごして、感じたことを分かち合いたいと思います。 「この一年に恵みを与えてくださった神様に賛美と感謝を捧げます。」この一年の 間に自分のこころの闇、簡単に人を許さないこころ、閉じこもっている自分がいること、いろんなものに依存関係している自分がいること、未解決な多くの問題 を抱えている自分がいること、沈黙の道を選んで、人間関係の難しさを避けてき た自分がいること、信仰生活のマンネリ化に陥った自分がいること、何事にもや る気をしなくなった自分がいること、生活習慣病に落ちた自分がいることを気づ かされました。この一年は恵みの時と同時に辛い時期でした。教会で取り組んだ 「いつくしみの特別聖年の歩みの学び、 「1.身体的な慈善のわざと精神的な慈善 のわざ、2.七つの大罪と七つの美徳、3.霊の実と肉の業、4.八福の教え、 5.十戒」を通して教会の古き豊かな教えに触れて、自分がキリスト者としての 生ぬるさを感じました。生活の見直しに責められていることを強く感じました。 いつくしみの門を通るために、子供会、青少年会、茨木教会、高槻教会と千里 NT 教会の皆様と玉造教会、仁豊野ヴィラと京都教区の福知山教会に巡礼に行って来 ました。皆様の神様に近づきたい姿勢とこころを強く感じました。いつくしみの 特別聖年の間に求められたゆるしの秘跡を通して信徒の皆様と深い出会いが出来たとこを神様に感謝します。その中に真剣に神と向かい合って大きな恵みを頂いた人がいます。わたし、自身が頂いた恵みはゆるしの秘跡の大切さをもっと悟り ました。イエス様が述べた言葉「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。

 

これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:11)醜い自分もあなた も神様の子ですと慰めを受けました、わたしもあなたを罪に定めないように。い つくしみの特別聖年にこころに響いた聖書の箇所は「神がわたしたちを愛して、 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛 があります。」(一ヨハネ 4:10)わたしがいるところに愛があるかどうかと深く考えるようになった。いつくしみの特別聖年を過ごして、わたしの回復、解放、 自由と恵みの年の歩みが始まりました。 最後にこの聖書に書いてあるように「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内に とどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。愛にとどまって生きて行 きます。(一ヨハネ4:16b)




主の降誕おめでとうございます。

司牧チーム Sr 橋本 とも子

 

この日、多くのキリスト者は例年のように、幼子を礼拝するため馬小屋に近づき、 幼子イエスの誕生を祝い、神への感謝と喜びを分かち合う日となるでしょう。 私も、その中の一人ではありますが、この日を迎える数週間前の出来事をつづって みたいと思います。

待降節の準備として、教会学校の保護者(リーダー)は、馬小屋の準備を始めました。

その時、司祭は「飼い葉桶」としきりにおっしゃっていました。私も知っていましたが、教えても、知らせる重要性は感じませんでした。でも、偶然というか、摂理的というか、

この教会学校の保護者(リーダー)は、職場の聖書の時間に、預言者についてプリントを頂きました。その中にあった箇所です。 「牛は飼い主を知り、ロバは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは 知らず、わたしの民は見分けない」(イザヤ1章3)

この預言書と出会い、彼女は深く感動していました。さらに、この聖書の学びの続きに

このような文章がプリントにありましたので、引用します。 『この箇所を読むと、聖書を熟読している人は、ルカ福音書のイエス誕生のシーンを 思い浮かべるでしょう。ルカにはイエス誕生のシーンに「飼い葉桶」という言葉が 3回も出てくるのです(ルカ2章7.12.16) ルカは、この「飼い葉桶」とイエスの誕生とイザヤの予言を結び付けたのです。 教会では、クリスマスに飾られる馬小屋で「飼い葉桶」の周りに「牛」や「ロバ」を 配置します。これも、イエスの誕生をイザヤ書と関連づける意図があるのです。故に、 「主人の飼い葉桶」のその「主人」とは誰かという点で、ルカは、それを 「主イエス・キリスト」だとしたのです。このことで、福音書を通して「イスラエルは 知らず、わたしの民は見分けない」と書かれている意味が明確になるのです。 そして、これはイスラエルの民に限らず全人類が「主の御心」を理解していない現実 を突き付けるのです。

 「イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」というこの箇所を読み終えた時、

「主の御心」を知っていると勝手にどこかで思い込んでしまっている人間の浅はかさと、

身勝手さと高慢さとに、キリスト者としての私は考えさせられました。そして、もっと 聖書を深く知り、伝えることの大切さも実感しました。 

今回この投稿の前に、黙想会に行く機会に恵まれました。そこで、指導司祭を通して

気づかされたいくつかを、分かち合いたいと思います。 

信仰には順番があります。まず①聞くことからです。 聞いたことを②知ります。知ったことのいくつかを③信じます。 信じたことのいくつかを素直に④生きていくのです。 生きたことだけが⑤宣教です。  

伝えることと教えることは違うんです。 教えることはしようとします。 ところが、伝えることがとんでしまいました。 伝えることを止めた教会、それが今の教会です。 伝えなくなりました。大きな問いかけです。と 

これをするか、あれをするかではなく、教会は福音を伝えなければならないのだと いうことに再び気づかされました。







わたしの教会がいつくしみの教会となるために・・ 聖霊に導かれて生きよう!

                  共同宣教司牧チーム  シスター深瀬聖子

 

 先日、ある仏教系の保育園の先生から問い合わせの電話がかかってき ました。「年長の子どもたち(6歳の子どもたち)と、カトリック教会を 見学したいのですが・・」・・・

何年か前にも同じように見学に来たこともあり、私はすぐに「どうぞ、いらしてください。」と答えて電話を切りました。約束の日、かわいいスクールバスが教会の駐車場に入り、先生と子どもたちがバスから降りて来ました。子どもたちは初めて訪れるカトリック教会に興味津々です。聖堂に入る前に、ここは祈りの場であること、イエスさまという神さま

がいらっしゃることなどを説明してから、『手を合わせて入りましょう』 というと、見事にきれいに手を合わせてくれました。

いつから教会はあるの?  教会で何をしているの?  教会にはどんなものが置いてあるの?  ロザリオってなに? などなど、たくさんの質問がありました。 子どもたちはオルガンの音色に感動したり、十字架の道行きをながめたりしながら、すこし教会に触れ帰っていきました。わたしは、教会がここにあることの意味について、とても深く考え させられました。

 これらのことを踏まえて、今、2016年のクリスマスを迎えている

教会にあって、教皇フランシスコはある日の一般謁見で次のように語っています。

マリアのことを考えてみましょう。聖書のイエスの誕生のところで、

、「 らし 」「 」と書かれていま 。( .51)このように、聖霊の働きによって、マリアは信仰の言葉と真理を受け入れ、命を授かりました。ですから、わたし 。わ の「 」という言葉を自分のものとして生きていかねばなりません。彼女は、神の子を無条件で、すすんで受け入れたときから変わりました。聖霊によって御父と子はわたしたちの中に住まわれました。わたしたちは神の内に住み、神のために生きています。しかしわたしたちの生活は、神によってほんとうに活性化されているのでしょうか。どれほどたくさんのものを神よりも大切に しているのでしょうか。兄弟姉妹の皆さん、わたしたちは聖霊の光を浴び、 聖霊によってわたしたちのいのちの王である神 の真理へわたしたちを導いてもらう必要があります。

 何かを感じて帰っていった保育園の子どもたち・・彼らの中にもし光が届いたとするならば、それはいつか人生の歩みの中で何かを求めるものとしてまたここに戻ってくるかもしれない。・・・ここに教会があり、ここで信仰をはぐくんでいるキリスト者がいるということは、社会を福音化していくためにすでにわたしたちの中に備わった聖霊に敏感であれと促されているのではないでしょうか?降誕祭も復活徹夜祭も夜に祝うということは、目ざめていることの大切さをわたしたちに教えているようにも思います。

さあ、聖霊に導かれて大きく開かれた教会としてよき知らせを告げに行 きましょう!  



 

「言葉は人となって、わたしたちの間に宿られた」ヨハネ 1,14

                         マルセル・フォールテン神父

 

今、どこにも、クリスマス・サールスがおこなわれています。。。
そういうサールスにいやな場面があると認めますが、一つだけよいと感
じます!お客さんは皆、誰かのことを考えて、ふさわしいおみやげを探しています。自分のためにおみやげを探している人は一人もいません。 これは素晴らしいことだとおもいます。

  聖書のはじめにあるように、「神は人を自分の似姿に造られた」という ことは、人間に神様と似るところがあります。「神は独り子をお与えにな るほどこの世を愛された」。そうして、御子は人にたいする自分の愛の印として命までお捧げになった。

  クリスマスの準備として、人々は、おみやげを買って、それをあげようとしています。しかし人間はイエスのように自分自身を与えることは 出来ません。イエスだけが愛の完全な印として人となられて、弱い赤ちゃんの姿で自分を与えてくださいました。ベトレヘム-パンの家という意味である-にお生まれになった。パンのように自分を与えた。。。

ご聖体のことを考えさせられます。今度のクリスマスには、その精神に 従って私たちもイエスのように人に自分を与える方法を考えましょう。 聖マザーテレサの祈りの中にあるように:
「貧しい人や悩んでいる人に、友を求める小さな人々、
  優しい言葉を植えている人々に、
  自分の手を、自分の足、自分の声、自分の心を、自分の時間を、  与えるように。」

享年の「いつくしみの聖年」の続きとして自分に対する神様の愛を味わいながら他人とこれを分かち合うことが出来ますように努めましょう。

  皆様と皆様のご家族のために聖なるクリスマスを祈ります。


  

 「二度と来ない、この年の主の御降誕節を大切に!」

清川 泰司 神父

 

今年も「主の御降誕」 、そして新年を迎える。生涯の中で二度とない、この時期を何 とか迎えることが出来そうだ。このように真に考えるようになったのは、司祭という 仕事上、若くして天に召された人々の出会いがあったからだ。 この時期、降誕祭、聖家族、神の母聖マリア、主の御公現と続く、そこに、あまり 注目されなかった祝日がある。それが、12 28 日に祝われる「幼児殉教者」の祝日だ。

この祝日は、救い主が訪れる事を恐れたヘロデ王が、イエスが生まれた地ベツレヘム とその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた(マタイ 2 16-18 ) その殺害された子供を殉教者として祝う祝日だ。この祝日について、私は、力ある人 間の傲慢さによって弱い者が犠牲になる人類の闇を明るみにするための日だと考えている。そして、人類が、このような事を繰り返さないように祈るために、この祝日があるのだと考え、この日ミサを執り行っている。 しかし、今も世界を見渡すと、多くの幼児が戦争、飢餓、虐待、堕胎などで大人の 都合で殺されている。人間の罪深さ、人間の私利私欲が作り上げる社会の不備がある。 日本の教会では、七五三の御祝いをミサの中で行うところが多い。ある時から、私はかならず、死者への祈りのところに七歳、五歳、三歳を迎えられなかった子供たち のために祈る。それは、世界中で、幼児の時に亡くなった子供たちのことを、みんな と共有するためだ。 「主の降誕」、 それは、「主の御心」を受け、それを貫いたイエスの誕生を祝う。そ の貫いたもの、それは、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者 の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ 25 40 )という、 小さな命が尊いものとされる地上の実現であろう。私たちは祈る「御国が来ますよう に、御心が天に行われる通り地にも行われますように」と。 死んでいった子どもたち、彼らは天において神の愛によって暖かく地上を見守って いることだろう。そんな事を、思いつつ、地上に生きる人間として責任を感じ、神の国の実現のために、この期間を迎える。


から