2017 聖母被昇天   第83   カトリック茨木教会発行誌

『恵みの時』

                                清川 泰司 神父

 

 先日、週日の高槻の朝ミサに、ひとりの外国人の男性が参加していた。ミサ後、その男性と話してみると、その人はフランス人でフランスから来たという。その男性は、流ちょうな日本語を話し、映画「沈黙」に影響を受け五島、長崎を巡り、そして、高山右近にも興味を持ち高槻に来たと言う。私が「どうして日本語が上手なのか」とたずねると、その男性は「5年間、日本で生活し、日本人と結婚したが妻は5年前に天国に行った」と話してくれた。

 そのフランス人と話していると、何故か、私の口から、彼に「千提寺に行ってみないか」という言葉が出た。彼は「行ってみたいと」言った。実は、私は右近ゆかりの地に来て、1年半も経つのに千提寺に行ったことがなかった。そして、高槻のある信者さんの案内で千提寺に向かった。

 

千提寺に到着し、茨木市立キリシタン遺物史料館に訪れた。キリシタンの末孫の方が史料館の展示物の説明をしてくださった。展示物の中で、興味を引く1冊の本があった。その本は「吉利支丹抄物」と呼ばれ、右近に関わる書ではないかとされている。千提寺の人々に影響を与えた信仰の基礎が垣間見ることができる書のようだ。しかし、この本は、古文書であるがゆえに判読が難しく、現在、ある大学の先生に現代語訳を依頼している事を聞いた。

この本について、その末孫の方が「この書は、右近が、神様を直接見ているような文章が書かれている」と話した。その末孫の方は信者ではないが、その書から直感的に何かしら神の姿を感じ取っていることに驚いた。その後、その方との対話は続き、信仰の根幹に触れ、信仰が響き合う対話となった。このような信仰について響き合う対話は、信徒との対話の中でもめったにない。その話の輪にいたフランス人も同様に驚いていた。

その後、そのフランス人は、高槻教会周辺を巡り、帰りがけにこのような事を言った。「今日は、神様から恵みを頂いた。信仰の遺物ではなく、生きた信仰に出会ったことを」と。

その日は、天と繋がるような晴天であった。そのような日に、何かに導かれるように、この恵みの時を頂いた。
 







マリアに見る教会の姿

                           共同宣教司牧チーム

シスター橋本

 

[天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい』](ルカ1・28~31)

[ マリアは恐れながらも「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」](ルカ1・38)と天使の言葉を受け入れ、イエスを身ごもるという現実を受け入れ、生き始めます。

 このマリアの生き方の中に、イエスからの呼びかけを受け、集められて生きる人々の集まりである教会の本質があるとカトリック教会は確認しました。またマリアにおけるお告げの出来事は、私たちキリスト者にとって、洗礼の出来事と重なることと受けとめてきました。それまで一人で生きていた人、マリアが「神の言葉」である「いのち」を身ごもるとは、心とからだ(生活そのもの、生活全体)でイエスを受けとめ、人生を分かち合いながらともに生きる「母」となるという根本的な変化がありました。

 私たちはマリアのように、イエスという「いのち」をこの世にもたらす者、それは宣教と洗礼を通して「いのち」を世に産み出すものとなっていきます。(教会憲章)マリアの祭日にあたりマリアの中に教会の使命を、そしてキリスト者の使命を、生きていく私たち自身が「神の言葉」に養われて生きていくことの大切さを深く感じています。

神の言葉に生きる私の日々の小さな歩みを分かち合いたいとおもいます。

栄光は、世界におよびすべてを超えて 神は偉大

    神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ

御名の栄光を主に帰せよ。 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。(詩編291

この詩編の中の「栄光」についてこんな説明を読み心に残っています。栄光とは神の臨在であって、神の本質ではない。属性であるよりは、むしろ行為であり、実体よりも、過程である。主として、栄光は全世界を圧倒する力として自現する。その力に敬意を表すことを私たちに要求しつつも、その力は天降って人を導き、思い出させる。栄光こそは善と真理 ―自然と歴史の中に働く力―を豊かに反映するものである。}

この書物と出会ってから、栄光と言う言葉を思いめぐらしながら、この詩編を口ずさみ祈る時、「神が天降って導き、善と真理をもって今日も自然と歴史の中に働く力」に祈る心がささえられているのです。   






 

    カトリック再宣教の胎動期

                                        香山 剛 神父

 

 

私は24年前に神戸の中山手教会に赴任し、1年間助任司祭として働きました。2018年は大阪教区再宣教150周年に当たります。1868年に神戸港が開港された150年前は港の近辺が居留地と呼ばれる外国人専用の場所として限定されていたため、パリ外国宣教会のムニクゥ神父によって居留地仲町37番に神戸で最初の聖堂が建てられたのでした。この宣教師が46歳で熱病のため帰天したと知って驚くことになるのですが。私は当時42歳であったことから、遠い異国のフランスから日本の宣教が再開されることを期待して来日しながらその志を果たせなかったムニクゥ神父と自分を重ね合わせた時、私の心は彼の熱い宣教師魂に揺り動かされたことが思い出されます。

 ムニクゥ神父と同時代に、在日外国人の礼拝所として天主堂が横浜(1861),長崎(1865)に建てられているのです。中でも長崎の天主堂における信徒発見の出来事は特筆すべきことではないでしょうか。 長崎の天主堂は、大浦の山腹で建設が始まり、沖縄から呼ばれたプティジャン神父が前任者と交替し「フランス寺」と呼ばれる聖堂が完成しました。彼は、何よりも信徒の子孫の来訪が実現することを心待ちにしていたところ、ついにその日が来たのです。

プティジャン神父は、天主堂の献堂以来毎日聖堂で祈っていましたが、その日には、訪問者のために格別に神の恵みを願い暫くして立ち上がると、一人の40代の女性がそばに来て胸に手を置いて「私たちはあなたと同じ心のものです」と話し出したのでした。これを聞いたプティジャン神父は「皆さんは何処から来た方々ですか」と尋ねると彼らは長崎の外れにある浦上村のものだと言うのです。村には同じ心のものが多くいてサンタマリヤへの信心を大切にしている様子で「サンタマリヤのご像は何処」と尋ねた事から信者の子孫の発見に至ったのでした。特筆すべき事は、横浜にいたジラール神父へのフランス語の手紙の中で Santa Maria no go-zo wa doko?とローマ字で書かれていた事が示す喜びの大きさではないでしょうか。

信徒が発見されたとはいえ当時は禁教令下にあったので上長からプティジャン神父は思慮深く行動することを請われ従ったようです。一方で浦上村のキリシタンは、「バテレン」が戻ることで公然と信仰を語る者や、江戸幕府の寺請制度を否定する者まで表れ、浦上キリシタンの状況が問題化し、ついに1868年の「浦上四番崩れ」、「大村崩れ」、翌年の「五島崩れ」という迫害の時を迎えるのです。明治維新政府は、禁教令を維持していた為に幕府よりも厳しい政策を行い浦上のキリシタンとして三千人を超える人々が西日本各地に流刑に処されましたが、1873年のキリシタン禁教令の廃止に伴って三分の一が信仰を捨てることなく故郷に、他の三分の一が帰郷して「転び」から立ち直りました。まるで「捕囚」からの解放と帰還という旧約聖書のような時代だったのでは!!    

“涙と共に種まく人は 喜びの歌と共に刈り入れる。”(詩1265)  



  

             

聖母マリアをおもう 

     司牧チーム シスター深瀬聖子 

 幼稚園の子どもたちが聖堂訪問をする時、神さまのお話の後、子どもたちとともに祈りを捧げます。その時々の出来事に合わせてお祈りをし、必ず『マリア様にもお願いしましょう・・』と、アヴェマリアの祈りを全員で唱えます。考えてみるとわたしたちはいつも聖母マリアと共に祈っているように思います。

 教皇フランシスコは次のように語っています。

 「マリアの信仰の最初の点は、罪のもつれを解くことです。わたしたちはたったひとつですが、神のいつくしみに不可能なことはないことを知っています。いかに幾重にももつれた糸でも神の恵みによって解くことができます。かつて不従順によってできたもつれを解くためにマリアの「はい」という言葉が神の扉を開き、わたしたちの心のもつれを父のいつくしみによって解いたように、マリアは忍耐強く愛情をもってわたしたちを神のところに連れて行ってくれます。わたしたちはみんななんらかのもつれを持っています。わたしたちはそれぞれの心の中にある自分の人生のもつれを見つけることができます。しかし「父よ、わたしのもつれは解けません」と言うのは間違っています。わたしたちの心にあるもつれは、良心のもつれ、どんなもつれであっても解くことができます。神のいつくしみに信頼し、もつれを解き、変わるためにマリアに助けを求めていますか。信仰の深いマリアはきっとあなたにこう告げるでしょう、「立ち上りなさい、主のもとに行きなさい。神はあなたのことをわかっています」。マリアは、わたしたちの母は、手を引いて御父のところへ導いてくださり、御父のいつくしみのうちにわたしたちを迎えてくださいます。」

 わたしたちの信仰の同伴者であるマリアにもっともっと助けを求めていきたいものです。イエスの母としてイエスの生涯にかかわったマリアは、わたしたちの歩みにもかかわってくださいます。マリアに委ねて主のみちを歩いて行きたいものです。

 単純で素朴な、深い喜びのうちにあるマリアとともに、イエスに従い、霊的巡礼の日々を旅したいものです。

から