2019 復活祭   第887号   カトリック茨木教会発行誌

「復活祭-新しいいのちへ―」

清川 泰司神父

 主のご復活おめでとうございます!

世の中で「生前葬」というものが、静かなブームを呼んでいるようです。その生前葬とは、本人が生きている間に、本人の希望や意思によって執り行われる葬儀のことです。基本的には、生きている間にお世話になった人や親しい人に感謝の気持ちを伝えたい、お礼をしたいという考え方から行われています。

その生前葬には、生きている間に棺桶に入り、その周りを近親者が囲み、棺桶に入った人へ感謝の言葉を述べるというものがあります。これを体験した人の中には、近親者への感謝の心に満たされ、その後の生き方が変わったという人がいます。さらに、自分自身の利己心や自身の力だけで生きてきたという自負心や傲慢な心、将来への不安からくる貪欲さ、過去の後悔や他者に対する恨み、様々な事柄が自分を縛り付けていることに気づき、その人間的事実を客観的、また俯瞰的に見、そこから解き放たれる体験をした人もいるようです。つまり、この体験により、新たに生き直すという宗教的体験をした人もいるようです。

私が、司祭を目指し神学校に入った頃、ある宗教書に「自分の死を思い、その死から生を考えることこそ、本来の宗教的人間の姿だ」という言葉が書かれているのを目にしました。

 実際、カトリック教会において、執り行われる「洗礼」は一度死ぬことでもあります。「洗礼」は、「この世のいのち」から、「神のいのち」へと招かれることでもあるのです。つまり、「洗礼」は、いのちが自分自身、また誰かの所有物でなく、神の所有物になったという事なのです。このことにより、神の前に立ち、人間的な光を求め縛られていた自己の愚かさに気づき、へつらい、小賢しく生きる自分から解放され、キリストの真の自由と神の愛の中で、生き直す機会を得られることでもあるのです。福音を深く理解する事により・・・。

 今年も、復活徹夜祭で、洗礼を受け、神により新たに生きる恵みを頂く方々がおられます。また、すでに洗礼を受けた信徒の方々も、徹夜祭の洗礼の更新により新たにされる恵みに預かります。そして、すべてのカトリック信者は、キリストの死と復活を通して、キリストの自由に預かり、神の愛に育まれ、生きる者となるのです。

イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と言いました。人類の救いを諦めない永遠なる神の愛、それは人間の生死を越え関わり続ける神の愛、つまり「永遠のいのち」なのです。より多くの人が、「永遠のいのち」の恵みに気がつき、その恵みの豊かさに預かることができるように祈り続けます。

 

 


 

 

喜びに向かう主の過越し

シスター深瀬聖子

 

 先日、『聖書の学び』の時間に、みんなで出エジプト記12章を読みました。ルカ福音書の中にある「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」の注解から、思ってもみない時刻に主人が帰ってくるというイエスの言葉を深めるために読んだ出エジプト記の12章でした。そこには主の過越しの次第が詳しく記されています。

聖書に出てくる夜という時刻には特別な意味があります。毎年復活の典礼を祝う私たちも聖なる過越しの三日間を夕刻から行います。最後の晩餐を記念する聖木曜日、そして主の受難と死を思う聖金曜日、旧約から新約へと移行していく復活の聖なる徹夜祭、朝早く、からの墓を見る婦人たち。救い主が生まれるのも夜半なら、死から復活へと過ぎ越すのも夜です。ここからわたしたちは何を受け取ることができるでしょう。それは父なる神のなさり方ということでしょうか。

私たちの立ち入ることのできない領域で行われる救いの神秘です。主キリストは、その神の領域にも私たちを招こうと人となり、死を通って復活し弟子たちの中に現れるのです。それは父である神のお望みだからです。この神秘は、実は私の人生にも触れてくださる神秘です。

神が私という命をこの世に存在させ、人生のプランを立てられるとき、神は必ず闇を用意されるのだと思います。闇はとてつもなく暗く、苦しく、何が何だかわからない状況にわたしを追いやりますが、必ず救いの道が準備されています。私が私を超えてどこまで信じることができるか。神の側に自分をゆだねることができるのか。毎年この過越しの典礼はわたしを新たにしてくれます。だからこそ、復活が深い喜びで満たされるのです。

わたしたちが迎える復活祭はちょうど春と重なり、自然が新しい命にきらきら輝く季節、新緑の季節に祝います。救いにあずかる喜びを生きる力に託して、復活された主キリストと共に歩んでいきましょう。

ご復活、おめでとうございます!!


  

  

             

から