2019 聖母被昇天   89   カトリック茨木教会発行誌

「被昇天のマリア」「福音宣教の特別月間」そして教皇フランシスコを迎えるために!

清川 泰司神父

 

 教皇フランシスコは2019年11月に日本を訪問する意向を示されています。

また、今年の初め、教皇フランシスコは全世界の教会に10月「ロザリオの月」を、「福音宣教のための特別月間」とすることを宣言されました。

被昇天から教皇来日まで、様々な準備が必要となります。その中で最も大切な準備は、霊的な準備です。それは、福音への理解を深め「神の御心」を知る喜びを実感し、その「神の御心」に心を合わせ祈り、「福音」を、この世に証しする者となる事です。つまり、神の恵みに喜びを感じ、感謝し、その永遠なる喜びを他者と分かち合う霊的な力を得る事です。

さらに、「福音宣教の為の特別月間」が「ロザリオの月」に行う事は、「神の御心」を豊かな心で、また喜びをもって受け入れ、「お言葉通りこの身になりますように」と生き、昇天された聖母マリアの信仰と繋がる事でもあるのです。

教皇フランシスコは「福音宣教のための特別月間」について、「喜びを特徴とする福音宣教の新しい旅の段階」に向かっていくように信者に呼びかけています。北摂地区では、この喜びに繋がる為に「聖母マリアと教会」と題して、映画と講演会を通して、聖母マリアに働いた「神の御心」への再認識、喜びをもって「神の御心」に生きた姿、そして、現代においても、私たち信仰者の母として関わり続けて下さっている聖母マリアの実像に迫り、福音を現代に証ししてゆく意義とその喜びを見出していただきたいと思っております。

これらの行事が、教皇を、喜びをもって迎える霊的準備の一助となり、「神の御心」を現代社会の中で忠実に生きる教皇の働きと繋がり、ともに、「御国が来ますように、御心が天に行われるように地にも行われますように」と希望を持ち、そして、一人一人の信仰者が、キリストの愛を、喜びをもって受け入れ、神の協力者として成長する事を祈ります。

825()     ミサ後  茨木教会  映画「マリア」

916(月・祝)  14時~16時 池田教会 「聖書における聖母マリア」

10 5()    14時~16時 豊中教会 「聖母マリアについてー教会の教えからー」

1014(月・祝)  14時~16時 茨木教会  「歴史の流れと現代社会にとっての聖母マリア」

 

この「福音宣教のための特別月間」の背景には、今から100年前、1919年に当時の教皇ベネディクト十五世が「諸国民への宣教」を強調した使徒的書簡『マキシムム・イルド』があります。日本の司教団は、使徒的書簡について「聖なる生活と善行を通して、主イエスをより広く告知し、イエスの愛を広めることこそが宣教活動の目的である」と簡潔に説明しています。今回、この教皇ベネディクト十五世とは、何者であるかという事を見出すことで、

「福音宣教のための特別月間」を豊かに過ごす、一助になってもらえばと思い筆を執りました。

教皇ベネディクト十五世が教皇に着任したのは、19149月で、第一次世界大戦の火種がついた2か月後でした。彼は、戦争の愚かさを徹底的に説き、国家間の対立の中で、戦争へ向かわないために、各国の首脳に和解を促し、当時のバチカンにおける外交手段を最大限に生かし粘り和平の為に努力しました。また、教会内部の「聖戦論」を提唱する高位聖職者に対しても、いかなる聖戦論の正当化を断固拒否したのです。しかし、その努力は、人間の欲望と憎しみ、そして、それぞれの国の行き過ぎた愛国心と、民衆に愛国心を煽る為政者により阻まれることになります。その渦に巻き込まれたのが洗礼を受けたキリスト信者であるということは言うまでもありません。

多くの被害者を生んだ、第一次世界大戦の後、使徒的書簡「マキシムム・イルド」が出されたのです。この書簡は、福音を宣べ伝えることの重要性はもとより、宣教の在り方も問うています。その中で、愛国心を否定しているわけではないが、それ以上の存在、つまり、国や民族の個別の救いにとどまらない全人類の救いを望む「神の御心」、そして全人類の和解へと誘う「神の御心」との和解の必要性が説かれているのです。

1922年に教皇ベネディクト十五世は帰天します。その後の教皇たちは、共産主義と、ファシストまた、その背後にある資本家の間で翻弄されながら、第二次世界大戦へと突入し、終戦を迎えます。この二つの世界大戦は、多くの犠牲を生みながらも、人間の愚かさが明るみにされた出来事でもありました。

戦後間もなく、その悲劇の歴史の歩んだ、教会は、徹底的に神の御心に生きた、聖母マリアを「被昇天マリア」公に認めます。このことにより、被昇天祭りが、行われる事となったのです。そして、第二バチカン公会議により教会のアイデンティティが明確にされ、そして、教皇は、公会議の精神に従い、科学技術の進歩に認めつつも、ある面、人間の精神的進歩を妨げている要因を指摘したり、経済優先社会と消費社会の中での神の御心に照らし合わせ、その不備を指摘したりしています。

教皇フランシスコは、環境破壊により、自分たちの家に被害を与え、未来にその負債を置いていることを問う「ラウダトシ」を発表したりしています。

このような、神の御心に従い生きる、教皇たちの思いを、私たちが、繋がり、この時代を生きる事、つまり「御心が天に行われるように地にも行われますように」という祈りの実現の為に。

 


 

 

マリアは天にあげられた

シスター深瀬聖子

 

第二バチカン公会議の『教会憲章』にキリスト昇天後のマリアという題で、次のように書かれています。

「実に神は、キリストによって約束された霊を注ぐ前に人類の救いの神秘を正式に現すことをよしとしなかった。そのため、使徒たちは聖霊降臨の日の前、「皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1:14)。マリアも、すでにお告げのとき自分を覆った聖霊のたまものが与えられるように祈り求めていた。最後に、原罪のあらゆる汚れから免れ守られた無原罪のおとめは、地上での生涯を終えてから、肉体、霊魂ともども天の栄光に引き上げられた。それは、マリアが、主の主であり(黙示録19:16参照)罪と死に対する勝利者である自分の子に、より完全に似た者となるためであった。」

 信仰の旅路にある私たちにとって、母マリアの生き方は模範であり指標となります。神のなさることを単純に信じ、思いめぐらしつつも神のみ旨のままに自分をゆだねて生きること。しかもいつもそのようであること。これはマリアの信仰の旅路の歩き方でした。

どんな出来事の中にも与えられている神のメッセージを受け取るためには、マリアのような生き方が必要です。時を重ねていけばいくほど、自分の生き方に固執するのではなく、ただ単純にマリアに支えられていることを実感することがあります。天にあげられたイエスの次に、その天に引き上げられたマリア。イエスもマリアも昇天はゴールではなく、そこからわたしたちと共に歩む・・いやこの世界と共に歩む日々を続けておられるのです。

大きな喜びをもって、すべてを父と子と聖霊の三位の神にゆだねて、マリアと共に救いの実現のために祈り、行動したいものです。



  

  

             

から