2023年 クリスマス  第96号  カトリック茨木教会発行誌



「主のご降誕」おめでとうございます。

                                 清川 泰司 神父

 今年も、「主のご降誕」を迎えることが出来ました。カトリック信者にとって「主のご降誕」を祝うことは「神の御心」が「イエス・キリスト」として約2000年前に、地上に来られたことを祝うことであるといって良いでしょう。

カトリックの場合、その祝いは「主の降誕」のミサという形で行われます。この「主のご降誕」を、世間では、英語圏で言われる「クリスマス(Christmas)」という言葉を使って祝っています。そもそもChristmasという言葉は「Christ」=「キリスト」と「Mas」=「ミサ」を指します。この意味で、「キリストの降誕」をミサで祝うのが正式なのです。

ここで言う正式とは、ただ単に「イエスの誕生」をミサで祝って終わりということではありません。「イエス・キリスト」の生涯(降誕・宣教・十字架の死・復活)を通して示された人類救済を望む「神の御心」に感謝し、そして、信者は「神の御心」に従い生きる恵み(御聖体=キリストの体)をいただくという思いがあってこそ、ミサは生きたものとなるのです(信者でない方は祝福)

2000年前、イエス・キリストは生涯を通して、人類の救済を求める「神の御心」を誠実に生き、人々に伝えました。このイエスが伝えた「神の御心」を簡単に説明すると、神がすべての人を無条件で分け隔てなく愛している事、そして、神の前ですべての人間は兄弟姉妹であり、愛し合い、赦し合うことを望んでおられる事、また、社会の中で無力な者が大切にされ、力を賦与された者は全ての人の奉仕者となる事を求めておられるのです。さらに、聖書全体を深く理解してゆくと、人間の知恵の枠組みで、他者や万物を役に立つか役に立たないかだけで価値づけることにより起こる悲劇(自然環境破壊・差別・排除・優生思想)について、神が警鐘を鳴らしていることにも気づかされるのです(特にローマへの手紙8:18-25参照)

しかし、現代に及んでも人類に戦争は絶えません。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのパレスチナガザへの攻撃、それが、憎しみを増大させ悲劇を拡大している現実があります。彼らの多くは、「一神教」であるユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒です。いずれの宗教も「人を殺してはならない」と教えられています。しかし、歴史上、現れる為政者(人間の権力者=宗教指導者も含む)は、この解釈を歪め続けてきました。

為政者は、信仰理解の未熟な人々に、豊かさ(富・安心)の幻想を抱かせ、その豊かさの争奪へと向かわせ、優越感と劣等感に人間は苛まれるのです。そして、為政者は、その中で人間の持つ貪欲さを煽り、同じ民族、同じ宗教、同じ考え、自分に都合の良い者を「人間」と捉え、それ以外は「敵」であり、「獣」とする人間の致命的要因を巧妙に利用し、自分の利益(蓄財、自己顕示欲)の為に悲劇へと人々を向かわせるのです。この悲劇は、「一神教」だけの問題ではなく、人類の致命的要因に基づくことであると考えるのです。

聖書全体、そして究極的には約2000年前、イエスが十字架につけられた出来事は、この人類の致命的要因(原罪)を明らかにするためでした。それは、人類救済を望む神が、人類の致命的要因により、無抵抗のまま殺される神の子「イエス・キリスト」の出来事を通して明るみにしたのです。この出来事を通して神は、人類を「死の世界(弱肉強食の世界)」から「いのちの世界(愛し合う世界」への可能性を開いたのです。そして、その「神の御心」が継続される徴としてイエスは復活し、さらに「聖霊(神の御心の霊)」が、世の終わりまで送り続けられるというのが、聖書全体を通して描かれた人類救済を求める「神の御心」と言えるでしょう。

近年、教皇は、聖書全体から「神の御心」を示す、「普遍的共通善」という言葉をよく使うようになりました。この言葉を、簡単に説明すると個人、家族、民族、仲間、同じ考えの者、同じ宗教に属している者のみの救いを超えて、人間には全体の救いを求める心を神から与えられており、それを呼び覚ます考えです。近年の教皇は、その考えを基礎に「すべての人が救われてこそ自分の救いがある」という「いのちの営み」に、人々を導く神を見出させようとしていることを感じます。

「主のご降誕」の際、教会に馬小屋が飾られます。その中心にある「飼い葉桶(家畜の餌入れ)」に幼子イエス・キリストが寝かされています。この最も弱く貧しい存在として来られた神の子イエスが、生涯を通して人類の救済を望む「神の御心」を伝え、そして、人類救済のために十字架につけられたのです。「飼い葉桶」に寝かされたキリストを見つめ、その上にある十字架を見つめる事、その背後に全人類の救済を望む「神の御心」が、今も背信する人類に忍耐強く関わっているのです。この「神の御心」の繋がるところに、平和を作る新しい心、新しい生き方への招きがあるのです。これが、「主のご降誕」をミサで祝う真意と言えるでしょう。


主の降誕とシノダリティ

                               シスター深瀬聖子

ルカによる福音での主の降誕の物語は、シノダリティについて深く考えさせられます。

皇帝アウグストゥスからの勅令による住民登録によって、ヨセフとマリアはダビデの町に移動することを余儀なくされます。神の民は、時に政治的な動きの中で行動せざるを得ない時と場に身を置きます。現代の私たちのようにです。

 マリアとヨゼフがベツレヘムにいるうちに、マリアは初めての子を産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせます。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。救い主の到来のために何と皆、無関心なのでしょう。逆に神様の救いの到来のありようは自分の場所がなく貧しい環境に現れます。

 夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに不思議なことが起こります。主の栄光が夜の闇を照らし天使が救い主の誕生を知らせます。ここにも神の選びが現れます。羊飼いたちは飼い葉おけに寝かせてある乳飲み子を探し当てます。天使が話した通りだったことを、羊飼いたちは人々に知らせに行きます。そして聞いた人々はこれらの事を不思議に思います。

私たちが想像するのとは全く違ったやり方で、神は救い主の到来を歴史に刻んでいきます。

 ここで注目したいのは、神は必ず複数の人の中に共におられるということです。マリアは救い主を産みましたが、決して一人ではありませんでした。羊飼いは天使の知らせを聞きますが、彼らも一人ではありません。さかのぼってマリアの受けたお告げも、大天使ガブリエルによるもので、マリア個人に語り掛けますが、同時に親戚のエリザベトの存在も知らされます。その後マリアはエリザベトに会いに行くことになります。

 インマヌエル・・我らとともにいる神は、私ではなく私たちと共にいる神なのです。シノダルな側面を持っています。

この信仰をもって生きるとき、私たちは神からの使命を見付けます。それは、自分の生活の中で共にいる神と、どこで、だれと、どのように出会うかです。過ぎていく時の中にあっても、神は常に私たちを招いておられるからです。しかもその神は、この世の価値や常識を超えています。時に私たちの評価するところでは見つけることはできません。クリスマスが表しているように、人々は羊飼いの話を不思議に思ったのと同様にです。そこでのマリアの姿は私たちへの助けとなります。マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていたのです。

 どうすることもできない状況の中で、ともにいる神を知る方法はこれしかないのではないでしょうか。心に納めて思いめぐらすと神は必ず聖霊によるサインを送ってくださるのです。そこに自分の心が向くとインマヌエルである神を見つけることができます。

 今年も降誕節を喜びをもって過ごしましょう。そしてこの季節に与えられるみことばを深く味わいましょう。み言葉と生活がつながったとき共にいる神をこの時代の中に見つけることができるでしょう。     メリークリスマス!





             

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