2017 主の復活   第82   カトリック茨木教会発行誌

 

ダニエル神父

聖書の箇所 

ルカ23:32-43 

「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」

*十字架とはどのようなものか。

十字架の実際

古代地中海世界で、十字架は磔刑(たっけい・はりつけのけい)の際に用いられ、最も残酷な重刑の一つでした。刑道具でした。生きたまま磔にされ、死ぬまで放置されましたローマ人は奴隷や凶悪犯人以外は、あまりの残酷さに磔刑に処さなかったと言われています。
旧約聖書においては、磔刑に処されたものは呪われるとも言われていました。
そんな中キリストは大罪人として十字架にかけられました。その後
キリスト教を公認したコンスタンティヌス一世によって、磔刑は禁止されました。同時に、十字架は、キリスト教のシンボルとなり、キリストの復活や、死や地獄に対する勝利を象徴する存在になりました。

イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

三人の男、三本の十字架、三つの運命。

1.「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。」ルカ23:32

2.「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。マタイ27:38









真中の十字架はイエスが背負った十字架です。贖いと救いの十字架です。

*イエスはなぜ十字架上で死んだのか。

イエスの十字架は、犠牲と身代わりと愛とを表している。人は自分で生きているように思うが、実は多くの他の命の犠牲によって生かされている。「食べ物」の犠牲。命あるものを食べて、その犠牲があって初めて生きる。

 1、イエスの死は、人類の罪を贖うためのものである。

ローマ3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」 十字架は、救いの土台である。 

  2、キリストの死がもたらしたもの(新約聖書)

   罪の代価が支払われた。

 マルコ10:45 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金 として自分の命を献げるために来たのである。」

 

「あがない(贖い)」……3つの思想が含まれる

①キリストの血によって身の代金を支払うこと。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:20)    

◎私たちの「贖い代」は、大変に高価なものでした。 

②律法ののろいを取り除くこと。 「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを(律法ののろい)から( あがない出して) 下さった。聖書に、「 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13) 

③罪の束縛から解放して、自由にすること。 「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。(Ⅰペテロ1:18-19) 

イエスの十字架は、(命の犠牲)と(感謝)と、そして「罪のあがない」と人の「生まれ変わり」を表している。

十字架を見る時、犠牲を思う、身代わりを思う。
罪のための身代わりを思う。
あなたへの愛を想う。
 





















1.イエスは祈って苦しんだ公園の名所は?

2.イエスを裏切った弟子の名前は?

3.三回もイエスのことを知らないと言った弟子の名前は?

4.イエスの死刑判決を下した方の名前は?

5.イエスは死刑判決を受けて、解放された方の名前は?

6.イエスは十字架につけられた場所は?

7.死刑判決の場所までイエス様は何回、倒れたでしょうか。

8.十字架を運ぶためにイエスを助けた方の名前は?

9.十字架の道でイエスの顔を拭いた女性の名前は?

10.十字架上に何が書いてありましたか。

11.イエスの埋葬の準備をした方の名前は?

12.最初に復活したイエスと出会った女性の名前は?

13.イエスの十字架の下に立ち会った5人の前は? ヨハネ19:25-26

14.イエスは何時ごろに亡くなれた?   

15.イエスの十字架上の最後の叫びは?

16.イエスは何時ごろに十字架につけられた?

17.イエスは十字架上で叫んだ3番目のことば?

18.マルコスって?誰ですか。ヨハネ18:10

19.ユダは幾らでイエスを裏切った?マタイ26:15

20.イエスは何時間、十字架につけられた? 



 主のご復活おめでとうございます 

共同宣教司牧チーム

  シスター橋本とも子

  毎日の生活の中で、私は「神を知り、自分自身を知ることが出来ますように」と祈っています。

なぜならこのテーマが私には生きる力になるからです。日々の生活は平凡な毎日、時には考えられないような出来事との出会い、人との出会い、また書物との出会い、人が生きているこの日々の歩みの全ての中で働かれる、神のなさり方と自分自身の弱さと貧しさからも、信仰生活の力を汲み取っているからです。

この投稿にあたり、最近手にしました書物との出会いが、自分の信仰について考えさせられたすばらしい体験になったのでこの本の紹介をしたいと思います。

著者はエイブラハム・ジョシュア・ヘッシェルで「人間を探し求める神」という本です。

=信仰は愛着である=

 信仰は信念とは違う。あるものを真とみなす態度とは違う。信仰は全人格的行為、精神と意志と心情のすべてを挙げてする行為である。信仰は敏感な感性、理解力、献身、そして愛着である。

1回限り獲得すればそれですむものではなく、獲得しても油断すれば失われる態度である。

 信仰を達成するのは容易なことではない。信じようとする意志あるいは欲望のなす決意だけでは信仰は自分のものにならない。信仰の達人に相応しい者となるためには、生きている限り日々刻々神秘の感覚を深め続けなければならない。神秘に対する無感動、厚かましさこそ信仰への最大の障害である。傲慢と自己満足の人工灯の下では、主の輝きは永久に見えまい。主の光に照らされてのみわれわれは主の光を見るのだ

 エジプトを脱出しても、紅海とシナイ山での二つの奇跡を目撃したイスラエルの民は、まだ完全に信仰に達したわけではなかった。荒野で40日間過ごしたのちモーセはイスラエルの民全員を招集して言った。

「あなたがたは主がエジプトの地でパロとそのすべての家来、その支配するすべての地に対して

なされたすべての業を、あの数々の大試練、しるし、不思議な業とを目の前に見た。だが、今日に至るも主はあなたがたに、その意味を悟る精神、視る眼、聴く耳を与えておられない」(申命記291-3

 イスラエルの「目の前で驚くべきみ業をなされた」にもかかわらず彼らは主に背いて、その驚嘆すべきみ業を信じなかった。(詩篇7814-32

 =立ちどまって熟慮せよ=

 文明が進歩するに比例して驚きの感覚は衰えていく。この種の衰退は精神状態の危機を示す、憂慮すべき徴候である。情報や知識が不足しているからといって人類は滅びないが、ものごとの有難さの感覚が不足すると、それだけで人類は滅びる。人間の幸せは、驚きなき生は生きるにあたいしないということがわかったとき芽生えはじめる。われわれに欠けているのは、信じようとする意志ではなく、驚こうとする意志である。

神的なものについての意識は驚きとともにはじまる。そうした意識は、その理解力を超えた超越的なものに直面したとき人がすること、すなわち驚きの結果である。こうした魂の覚醒を妨げる最大の障害は、慣習的概念(理解)への陳腐な心的態度(ありふれていて、古くさい)への適応である。

 この書物との出会いは私の信仰生活の再生のような気がしました。これからゆっくりと立ち止まって、神と関わったイスラエルの民を学び、著者が生きた信仰に少しでも近かづけたらと願い、神を再び知っていく道を歩まなければならないような、思いを抱くようになったのです。















復活された主とともに

司牧チーム シスター深瀬聖子

 

教皇フランシスコが2013414日に話された説教の一部を見てみましょう。

 『最初にキリストに従った使徒たちが、証し人となった力はどこから出てきたのでしょうか。またその力だけでなく、困難や暴力にも屈せず喜びを持って行動した勇気はどこから出てきたのでしょうか。使徒たちは純朴な人たちでした。彼らは書記官でもなく、法学者でもなく、また司祭でもありませんでした。このように教養もない人たちが官憲の圧迫にもかかわらずどのようにしてエルサレム中に教えを広めることができたのでしょうか。この事実は、明らかに復活した主が使徒たちと共にあり、聖霊の働きによるものであることを示しています。使徒たちと共にある主と聖霊の働きによってのみこの途方もない事実の説明ができます。使徒たちの信仰は、一人ひとりが死から復活したキリストを経験したことによるものです。だから使徒たちは何も、誰も恐れなかったのです。』

 2017年の復活を迎えた私たちはどうでしょうか?私の人生に復活された主がともにおられることを実感しているでしょうか?このことが自分の生きる原動力になっているでしょうか?この復活節に自分に問いかけてみたいものです。

 16年前、大病を経験した私は、これからの人生は神様が下さったおまけのようなものだと思い、妙に肩に力を入れ風を切って、しゃにむに生きていたように思います。生かされていると思いながら結局自分が生きていて、ともにおられる主は置き去りにしていたような生き方だったのかもしれません。昨年またもや大病の恵みを頂いた私は、以前とは全く違う感覚で受け止めました。その日その日、今日が一番大切であること。明日や明後日ではなく今日、主がともにおられることにすべてをかけること。これは大きな変化だと思います。多くの祈りに支えられ、主を証しできるのは『いま』しかないことを痛感しました。復活した主が共におられるので何も恐れることはないのです。

「恐れるな」と言ってくださる主と今日も歩いていきましょう。

ハッピー イースター!! 



 

    「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる」

                                        清川 泰司神父

 

 今年も、皆さんとともに復活祭を迎えることが出来たことを神に感謝!

パウロは、イエスの死と復活について、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体は滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ローマの信徒への手紙6章6‐8)と言っています。私たちは、キリストの復活の恵みに預かることにより、古い者から新しい者にされたのです。

 「死と復活」とは何かを、深めるきっかけになった出来事があります。神学生になって、司祭職を目指す最初の段階である助祭・司祭候補者認定式に預かりました。その式が終わり、多くの信徒が、私に「頑張ってね!」と声をかけてくれました。その時、1人の老人が私に近づき「いい葬儀でした」と言ったのです。その近くにいた娘さんが慌てて私に「父が失礼な事を言ってすいません」と、その老人は認知症だったという事が分かりました。

神学院に帰り、食卓で、この出来事について話をしていると、神学院長が「清川君、その老人は神から啓示を受けたんだよ!新しい清川君になったということなんだよ!」と。その時、なんだか、うれしい思いになったことを覚えています。そして、これが復活信仰の基礎を知らされました。この復活信仰とは何かを深め、人々に伝えなければならないのだと感じさせられました。

 聖週間、そして復活祭に預かる、それは、「キリストと共に死に、キリストと共に生きること」、つまり生き直す事でもあるのです。自分の心を、神の御心に生き直す、古い人から新しい人へ生きるチャンスをもらった事なのです。そのようなありがたさを実感するために、「神の御心」を深く理解する必要があります。それは同時に、人間普遍的の不完全さを理解し、その不完全さを知るがゆえに、いつくしみによって解放する神に対してのありがたさが生まれるのです。

 そして、毎回行われるミサの中で、「信仰の神秘 主の死を思い、復活を告げ知らせよう、主が来られるまで」と唱えるとき、また福音により不完全さを受けとめ、生き直す恵みをもらったと感じさせられます。人生は、過去に戻らない、未来は私たちの在り方次第です。神と共に歩むことで、日々、赦されながら、新たにしてくださる道、その事を信じ、実感できること、ここに復活信仰の恵みがあるのです。



  

             復活祭の喜びを申し上げます

マルセル・フォールテン神父

復活の朝、ヨハネは「墓に入って来て、見て、信じた」と書いてあります。見たものは復活したイエスではありませんでした。ただ空っぽになった墓と残された布だけでした。
しかしそのことで、いままでイエスから言われたことを思い出して少しずつ本物の信仰を育てられて聖霊降臨の朝、ペトロと共におおやけに宣言することが出来ました。

「あなた方は律法を知らない者たちの手をかりて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して復活させられました。」

2000年前の出来事ですから、これを見たと言えるひとはだれもいないでしょう。しかし、この出来事によって、生かされて、喜びと希望で生きる私たちはそれを証ししています。
キリストの受難と十字架の死は愛の業であったように、私たちも愛をもって復活したキリストの喜びを表すように呼ばれています。四旬節の間、教皇フランシスコは毎週の金曜日に一つの施設に訪問しました。これで多くの障碍者に喜びと慰めを与えました。私たちのために励みとなるような模範です。
 聖マザーテレサの言葉ですが、「わずかな何時間でも、自分が愛される値打ちがある人であることを自覚させたいと思って死にかかっている人々の世話をしています。出会う人、一人ひとりは、私にとって今生きていらっしゃるキリストです。キリスト者であることを他人のためにキリストとなることです。」
この言葉と教皇様の模範によって、復活したキリスト、今生きておられるキリストは何であるかを具体的に教えられるでしょう。今の季節、春に新しいお花を見て命の力とその美しさを味わっているでしょう。キリストの復活によって得られるもっと完全な喜びを味わってこれを他人と分かち合う力を与えられますように、弟子たちがうけた聖霊を私たちも受けますように願いましょう。最初の教会の支えとなられた聖母マリアが私たちのためにとりなしてくださるように祈りましょう。 


 

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