2025年 聖母被昇天  第101号  カトリック茨木教会発行誌


 

「お言葉どおり、この身に成りますように!」の真意

 

清川泰司

この大聖年に「聖母マリアの被昇天の祭日」を迎え、ミサを執り行います。この日は第二次世界大戦の終戦記念日でもあり、戦後80年を迎える節目の年でもあります。私たち信者は、聖書全体(救いの歴史)に描かれる人類救済を切に望む神の御心(キリスト)を知るがゆえに、このミサにおいて、人類が戦争を生み出す残念な要因(原罪)を見出し、それが私たちの回心と、全世界の平和を願う祈りへと駆り立てるのです。

このようなカトリック教会の聖書と聖伝から導き出される神への理解に基づき、1981年、教皇ヨハネ・パウロ二世は広島平和記念公園で「平和アピール」の冒頭にて、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」と語りました。この言葉は、今も、そして永遠に残されるべき言葉です。また、教皇ヨハネ・パウロ二世は聖母マリアへの深い理解を通して、豊かな書簡を残しました。その信仰の共通理解として、聖母マリアは私たち信者の「母」であり、「信仰の模範」としての役割を果たしているということです。ゆえに「聖母マリアの被昇天のミサ」において聖母マリアを思い起こすことは、私たち一人ひとりの信仰を育むうえで重要な時となるのです。

そこで今回は、「お言葉どおり、この身に成りますように!」という聖母マリアの信仰告白に秘められた真意を深掘りし、その信仰の本質を共有したいと思います。この言葉は、聖母マリアが、天使から聖霊によって神の子キリストを宿したことを告げられた時に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、神に示した信仰告白です。この「お言葉どおり」の「お言葉」とは、「神の言葉」を指します。つまり聖母マリアは、ご自身のすべてが神の言葉に秘められた計画(人類救済の計画)に用いられるようにとの言葉なのです。これは、私たちが祈る「ニケア・コンスタンチノープル信条」の「からだの復活、永遠の命を信じます」に繋がる言葉です。それは魂の復活のみならず、自分自身のすべてが神の人類救済を求める永遠なる御心に繋がることで、本来の人間に復活し、世の終わりまで永遠に続く神の御心に結ばれるための祈りでもあるのです。この「お言葉」についてより深い理解へと招くために、「聖書全体のストーリー(救いの歴史)」の中でどのような意味を持つかを簡単に解説し、その後にさらに深い理解へと誘いたいと思います。

 

・「神の言葉」の真意と救いの歴史

この「言葉」とは、神が万物を創造するために用いた「言葉」であり、「善悪の知識の木」から実を食べて悪魔に支配された人類を解放するために、今から約2000年前に地上に送られた「イエス・キリスト」の「言葉」によって、人類が再創造され、神との信頼関係に復活する為の「言葉」となるのです。

創世記において、神は「言葉」によって天地万物を創造し、それらを見て「それは極めて良かった」(創世記1:31)と満足されました。人類は神の協力者として楽園(神との信頼の場)に置かれましたが、悪魔に唆されて「善悪の知識の木」の実を食べ、神の言葉ではなく、自らの偏狭な知恵を頼りに生きるようになりました。これが神の言う「死」であり、人類は悪魔にとって都合の良い存在となったのです(原罪)。

神は、悪魔に支配された人類を楽園に残すことで、楽園が「裁きの世界」に変わることを案じ、地上に追放されることとなります。地上に追放された人類は、自分本位の愛、正義、平和への執着により、万物と他者の間に不和、争い、貧富の差、戦争を生み出す「裁く存在」となりました。悪魔に支配された人類は、神の御心を無視し、富、名誉、自己顕示欲、承認欲求、支配欲、情欲、保身を人生の目的とし発展を目指すようになったのです。神はこの発展が滅びへと向かうことを危惧し、「バベルの塔」(創世記11章)において言葉を混乱させ、人類の一致による誤った発展を遅らせようとされました。現代でも問題となる、悪魔の支配下での人間の知恵による発展は偶像崇拝に過ぎず、自然環境の破壊、社会の格差、争いの種となり、滅びへと向かう現実を、すでに神は見抜いておられたのです。このような聖書神学を背景に、教皇ヨハネ・パウロ二世は「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」と語ったのです。

・人間を再創造するイエスの言葉

旧約聖書では、神はイスラエルの民を人類の模範とするために選び、民に、預言者(神の言葉を預かる者)を通してご自身の御心を示されました。しかし、イスラエルの民も原罪を持つ人間であり、偶像(富、名誉、自己顕示欲など)に魅了され、神の救済の道を見失ってしまいました。

そのような人類の現実の中で、神は約2000年前に「神の言葉」を生きる者として、イエス・キリストを聖母マリアの胎内に聖霊によって宿らせました。聖母マリアは受胎告知を受け、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と全面的に、神の人類救済計画に希望を置いて生きることを誓ったのです。ここまでの話のまとめとして「ヨハネの福音書」の1章は次のように記しています。

初めに言があった。言(ことば)は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光(預言者→イエス・キリスト)は暗闇(悪魔に支配された人類が営む社会)の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:1–5

イエス・キリストは、人類を悪魔の支配から解放し、創世記に記された「それは極めて良かった」(創世記1:31)、「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)という本来の姿に再創造するために、「神の言葉」を人々に伝え、生きられました。聖母マリアも、その神の救済計画に協力する者として、御子イエスが語る「言葉」を優先し、それに従って生きる者となりました(ヨハネ2:1–11参照)。イエスの言葉とは、すなわち「自分を捨て(悪魔に支配された自己を捨て)」、「他者と万物を愛すること」、「赦すこと」、「仕える者になること」、「もっとも小さき者(無力な者)を大切にすること」、「敵をも愛し、祈ること」、「見返りを求めないこと」などです。この言葉にすべての人が生きることこそが、人類と世界の本来性、すなわち真の平和の実現につながるのです。それは人類の復活の糸口であり、悪魔から解放され、真に神と共に歩む者となる道です。

聖母マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と応え、イエスが十字架につけられてもなお、人類救済を望む神の御心への希望を貫きました。その信仰ゆえに、マリアは世の終わり(世の完成)まで人類救済を求め続ける父なる神のもとに昇天され、神の右の座におられるイエス・キリストの傍らに存在しています。

私たち信者は、マリアの取り次ぎを通して、人類救済の神の協力者として生きる恵みを祈り求めています。

そのため、私たちは「アヴェ・マリア」を唱え、聖母マリアの神への希望に自らを結びつけようとします。その祈りの中で、「今も、死を迎える時も、お祈りください」と願うのは、死の瞬間においても神の救済計画に結ばれた者として生きることを望み、死に至っても、神が人類を永遠に慮る命の営みに招かれることを祈るのです。

また、私たちはミサにおいて、み言葉を聞き、御聖体を頂くことで、「お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの応答が自らのうちに成就し、「それは極めて良かった」(創世記1:31という神の協力者としての復活の恵みに与るのです。そして、イエスが世に示された言葉を、日々の生活の中で証しする者となるのです。このようなことを思い起こし、新たに神と共に歩むためにも、「聖母マリアの被昇天の祭日」のミサは、信者にとって恵み深い時となるのです。

 

しかし、何らかの事情によりミサに参加できない方々もおられることでしょう。私たちはミサの中で、そのような方々のためにも心を込めて祈りをささげます。そして、すべての信者が新たにされ、聖母マリアのように人類救済を求める神の御心に応え、共に歩む者となる恵みを受けられるよう、祈りを合わせましょう。

 

 

 

「聖母の被昇天おめでとうございます。」

下瀬智久

 

今年の春に教区から、茨木・高槻教会の協力司祭としての任命をいただきました。茨木教会の皆さんには、これまで黙想会などの際に何度かお世話になったことがありましたが、これからは小教区を担当する司祭の一人となります。主任司祭である清川神父様からは「司牧活動はシスター方も含めたチームで行うけれども、特にその中で茨木教会の担当をお願いしたい。」とのことですので、これから様々な形で、皆さんとの関わりを深めていくことが出来ればと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。

今年は例年をはるかに超える酷暑が続いていますが、そうした中で教会は「聖母の被昇天」を祝います。聖書にある通り、マリア様はさまざまな苦難や困難に遭いながら、神のひとり子であるイエス様を、聖霊によって身ごもり、生み育てられました。イエス様が成長されてからは、イエス様に従う多くの婦人たちと共に歩まれ、イエス様の受難の際にも「剣で心を刺し貫かれます」と預言された通り、悲痛な思いで見守られました。聖書に記述があるのは、復活されたイエス様が天に昇られた後の聖霊降臨の際に、弟子たちと共におられたということまでですが、教会の長い歴史のかなり早い時期から、その生涯の終わりに死を体験されることなく、肉体も魂もともに天の栄光にあげられたと広く信じられてきました。例を出すと、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが、初めて鹿児島に上陸したのも、同じ815日でしたが、彼はこの日が聖母の祝日であることを、残された書簡の中で何度も記述しており、このことから彼は日本上陸にあたって、聖母の取り次ぎへの感謝の祈りを捧げたのだろうと考えられています。そして、こうした多くの人々の信仰による証しを経て教会は、1950年に『処女聖マリアの被昇天の教義』を荘厳に宣言しました。マリア様の姿は、私たち信じるものすべての模範であるとともに、やがて私たちにも与えられる救いへの希望でもあります。私たちはこの伝統を守り伝えていかなくてはなりません。

それと同時に、私たちが忘れてはならないのは、戦争が終わって80年の節目を迎える日でもあるということです。明治維新以後の近代化は「富国強兵」のスローガンとともに進められましたが、その結果として10数年ごとに他国との戦争を行い、ついには多大な犠牲者とともに多くの街を焼き尽くされ、飢えと貧しさの中での再出発を余儀なくされることになりました。様々な意見や考えがあるとは思いますが、少なくともこうした飢えと貧しさから立ち直って、戦争をしない平和な国家として過ごしたこの80年間は、間違いなく誇るべきことだといえるでしょう。残念なことですが、世界全体に目を向けると、終わりの見えないウクライナ紛争やパレスチナのガザ地区での悲惨な戦闘が今も続いています。こうした戦乱が一日も早く終わるよう願うとともに、これまでの平和な80年が、100200年と続いていくように、聖母の取り次ぎを願って祈りたいと思います。

 

 

 

 


             

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