2025年 主の降誕 第102号 カトリック茨木教会発行誌
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「主の降誕」のお喜びを申し上げます!
清川泰司神父
今年も「主の御降誕祭」を迎えました。私は、天に召された茨木教会の信徒の方々が、この世がもたらす光から解放され、「神の光」に包まれ、天使と共に神を賛美し、清めと共に至福へと向かっていることを信じています。地上に生きる私たちも、彼らと声を合わせ、神が人類に御心を注ぐために来られた真の光「イエス・キリスト」を人類のただ中に送ってくださったことに「主の御降誕のミサ」において感謝と賛美を献げます。また、いつの日か、この世が「神の御心」に適った世界(御国)となり、差別や貧富の差による飢え、戦争のない真の平和が訪れることを希望し、祈りを献げます。
12月25日の「主の御降誕」は、本来「キリストのミサ」を意味する「クリスマス」という言葉で表されます。しかし現代では、その真意が失われ、消費意欲を駆り立てる言葉へとすり替えられています。人々は「消費の光(偶像の光)」を「真の光」と混同し、豊かさを追求する一方で、キリストがもたらす真の光の価値を見出せなくされています。
経済と科学の原理が優先される現代社会において、テクノロジーの進歩(AIを含む)は、その刺激と便利さの追求こそが、人類を進歩へと導く光だと思い込む人を生んでいます。しかし、良識ある開発者(自己顕示欲と、暴利を目的にしていない人)の中には、その進歩の不完全性と危険性を指摘する者もいます。それは、その開発された物が、人間を真の意味での幸福、また成長させるものではないという主張です。
私は、この良識ある開発者の危惧に同感します。それは、聖書全体に描かれる「神の御心」への理解を深める中で得た視座です。聖書は、人類の不完全性を明らかにし、人間に刺激と便利さを与える「偽りの光」の危険性を「偶像神」という言葉で示しています。聖書全体における神を見出す中で「偶像神」の意味は、人間の自分本位の利己的欲望の投影物、すなわち「偽りの光を放つ神(悪魔)」を指しているのです。
聖書は、人類において「偶像」が力を増す中で、弱肉強食の世界を生み出すことを示します。その世界では、強者は弱者を慮る心を失い、人々は偶像の光を求め優越感や劣等感に苛まれます。そして、人々の貪欲さが「貧富の差」を生み、社会に格差をもたらし、人の心に妬みや裁きを生じさせます。そして裁きが正当化され愛は冷え、それを利用する為政者や革命家といった「インフルエンサー」が現れ、集団を束ね、暴力による対立、さらには戦争へと向かうのです。
また、「偶像の光」を追い求める人類の進歩は、地球そのものを損傷させ、未来に負債を残す現実をも生み出していることが、近年、あらわになっています(自然環境破壊)。そして、この問題に不感症にさせるのも「偶像の光」と言えるでしょう。
この普遍的な人類が繰り返す罪の現実を踏まえると、約2000年前に神によって来られたキリストは、「偶像の光」の危険性を明らかにするために現れたことが分かります。イエス・キリストは、人類が偶像に巻き込まれる流れの中で自滅という悲劇を遅らせ、真の平和な世界を築くために「神の御心」である言葉を人類に送られ、自ら体現されました。その言葉とは「自分(利己)を捨て」「他者(万物を含む)を愛し」「赦し」「最も小さき者を大切にし」「偉くなりたい者はすべての人に仕える者となり」「敵をも愛し、敵のために祈り」「見返りを求めない」などです。全人類がこの言葉を生きれば、平和は訪れるのです。
しかし現代においても、「キリストの光」は、人間の欲望の投影物である「偶像の光」によって弱められています。それでもなお、キリストの光は確かに存在し、存在しなければならないのです。この光を信じる者の集いこそが、教会で行われる「ミサ」です。そして、人類を偶像から解放する真の光である「イエス・キリスト」を遣わしてくださった神に感謝し、その御心に生きるために「主の御降誕のミサ」が献げられるのです。
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主の御降誕おめでとうございます。
下瀬智久神父
皆さん、主の御降誕おめでとうございます。季節は昼の時間が一番短い冬至を迎えて、ある意味で夜の闇が最も濃い時期ではありますが、こうした闇の底にあたる今こそ、イエスさまの御降誕の光はより輝きます。私たちが日々の歩みの中で、イエスさまからいただいた福音に従って歩み、世の光として人々の証となることが出来るよう願いたいと思います。
典礼暦によると2026年度はA年です。主日の御ミサでは4つの福音書のうち主にマタイ福音書を読んでいきます。このマタイ福音書の特徴は、イエスさまの到来やその働きについて、分厚い旧約聖書を通して示される、救いの歴史の集大成、旧約の預言の成就として描いていることです。例として第1章の18-24節にある、天使がイエスさまの誕生を告げる場面を見てみましょう。
ルカ福音書にある有名な「受胎告知」の場面では、天使がお告げを告げるのはマリア様に対してでした。これに対してマタイ福音書では、既に「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」後で、ヨセフさまに対して告げられます。これは、この時の天使の言葉に「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とあるように、救い主は、古代イスラエルの人々にとって最も偉大な王であった、ダビデの家から生まれると信じられていたことの反映であり、この血筋であるヨセフさまは正しい人、こうしたお告げをうけるのに最も相応しい人として描かれています。
福音記者はさらに付け加えて「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と告げるとともに旧約聖書から次の言葉を引用しています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」イザヤ書にあるこの言葉の実現こそがイエスさまの誕生でした。それは私たちの歩みを、ただ高い天の上から見下ろしている神ではなくインマヌエル、つまり「我々と共におられる」神が人となられたという驚くべき出来事でした。気の遠くなる程長い準備の期間を経て、この地上に現れてくださったイエスさまの光に照らされて、新しい年を迎える私たちの歩みが、福音の教えにもとづいた、信仰の証となるよう祈り続けましょう。これから迎える新年が、主の御降誕の光に満ちた、平和で恵み深いものとなるよう願っています。
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すべての人を救う神の恵みが現れた
シスター深瀬聖子
私が7歳の時、一番下の妹が生まれました。自宅出産だったのでよく覚えています。小さなお布団が用意され、朝起きてみると、そこに赤ちゃんが寝かされていました。昨日まで何もなかったのに、朝、そこにいのちが存在していました。ものすごく不思議でした。飽きずにじっと眺めていました。その後私の不思議な感覚は、家族に新しいメンバーが増えたことで一気にかき消されてしまいました。
ご降誕の出来事を思いめぐらしていると、7歳の時に感じた不思議な感覚がよみがえります。布にくるまれ飼い葉おけに寝かされているいのちの存在に、初めに訪れたのは羊飼いたちでした。彼らは天使たちに告げられてそのいのちを見ました。
神が人となる。生きる者としてこの世に存在される。この世に生まれて存在する私たちと全く同じ人間となる。なんと心強いことでしょう。神への視線を自分に向けたしまった私たちの中に、このような形で神は神ご自身を存在させるのです。
クリスマスは、神が確かに私たちの中に存在していることを、感謝をもって受けとめる典礼です。毎年同じことが繰り返されているのに、毎年いただく恵みは異なります。インマヌエル、神は私たちとともにおられる。この日、平和のうちに、深い喜びとともに主の降誕を祝いましょう。
みなさん、クリスマスおめでとうございます。
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